文字禍

著者 :
  • ALLVD (2012年9月27日発売)
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感想 : 37

端的にいうとゲシュタルト崩壊の話。文字をじっと見つめていると、意味や音などを忘れ単なる線のように見えてくる現象である。おそらく誰しも人生に一度はこれを経験しているのではないかと思うが、タイトルの文字禍とは、読んで字のごとく「文字による禍(わざわい)」だが、初めはただのゲシュタルト崩壊から始まり、字を書けるようになったことからの物覚えの悪さや、字を見続けた弊害による近視、引いては物理的に本に押し潰されて死ぬ、というように、読んでいくとその意味がじわじわと広がりを見せていくのが面白かった。また、舞台背景として存在する古代アッシリアの研究者、という立ち位置が、これを「文字の精霊」のため、と認識しているのが科学的な現代人からするとやや滑稽に思いつつも、昔の人は確かにそのように考えていてもおかしくないかもしれない、とやはり興味を引かれてどんどん読み進めてしまった。中島敦は漢語が多い印象があったが、これは比較的読みやすい部類の作品なのかもしれない。読書会のリクエスト作品はどれも面白くて大変ありがたい限り...
文字とは何か。文字を得ることによって人は物事を書き留めて記録することができるようになった。歴史を著すようにもなった。しかし、歴史書の編纂者は歴史を問うたとき、そこにかかれない事実は歴史として後に存在し得なくなる、という事実もまた存在していた。そういう意味で、引用に示した問いが大変印象的だった。我々が学習して知っているつもりになっている事実は、誰かが書き留めた物事の表層でしかないということを、この話を通じて否応なしに問われているように思えた。
また、私は以下の文章を読んだときに自分に通じるものを感じた。
「ナブ・アヘ・エリバ博士は、この男を、文字の精霊の犠牲者の第一に数えた。ただ、こうした外観の惨めさにもかかわらず、この老人は、実に――全く羨ましいほど――いつも幸福そうに見える。」
外見的に惨めであるように見えるが、本を読んでいる限り老人が幸せである、という表現である。およそ読書という行為は一人で行うのが一般的であり、この老人は文字にとりつかれるあまり、自身の身形に気を配らなくなっていることが読み進めていくとわかるのだが、このように一人でいることになれると周囲のことなど脇目も降らなくなるというのが、我が身を振り返ってみても往々にあったので少し共感できた。私は不注意のあまり、よく「もっと周りを見ろ」と言われる。それが簡単にできたらどんなに楽であろうか。だが己が幸福である人間は、それを捨ててでも周囲に気を配ろうとする意思が芽生えるのだろうか。むしろ、己が幸せであればあるほどに、忠言を切り捨てより殻に閉じ籠ろうとする意思が働くのではないかと思う。下手をしたら、この老人にとっては本で圧死したことすら幸せの部類に入るのかもしれない...そう考えざるをえないのである。
ところで文アルの中島敦の潜書台詞「文字に取りつかれた人がここに…」というのは、この著作が元ネタなのだろうか。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 文アル読書会
感想投稿日 : 2017年7月20日
読了日 : 2017年7月20日
本棚登録日 : 2017年7月20日

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