堪えることの意味や内容、あるいは理屈などはない。元来、人間の行為や行動に、どれほどの意味や内容、あるいは理屈が求められるであろう。なぜ親に孝であり、なぜ君に忠であるのか、と問われたところで、事々しい内容などはない。うつくしい丹塗りの椀の中に、水を満たそうと飯を盛ろうと、また空でそこに置こうと、丹塗りの椀の美しさにはかわりがないのである。孝や忠は丹塗りの椀であり、内容ではない。蔵六は堪えしのぶことによって、自分のなかに丹塗りの椀をつくりあげている。丹塗りの椀の意味などは考えておらず、ただ自分は丹塗りの椀でありたいとおもっているだけである。
「学問は、したくてするものです。学問であれ遊芸であれ、人間の諸道は、たれのためにするというものではない。自己のためでもない。ただせざらんと欲してもしてしまうという衝動が間断なくおこるという生れつきの者がついに生涯学問をやりつづけてゆくということであり、それ以外になんの理屈もつけられませぬ。…」
読書状況:読み終わった
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カテゴリ:
勉
- 感想投稿日 : 2020年3月8日
- 読了日 : 2020年3月8日
- 本棚登録日 : 2020年3月8日
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