タイトルがおどろおどろしいが、その「賛否」はともかくとして現状の世の中の構造がよく理解できる内容。またそれが「真実かどうか」もともかくとして、仮に「ウソ」だとしても一部の人間が決断すればその仕組みは実現するだろうということ。それはお金の存在意義からしてもそうだし、自分をモデルとした人間の性質からしてもそう。自分をよほど特殊な人間と仮定しない限り、あるいは相当の数の人間が極めて優れた人間であると仮定しない限りその結論を崩すのは難しい。
ニュース記事に触れる度に不思議に思うことがある。「なぜ景気を良くすることが正しいのか」「なぜ多くの人が経済をよくすることを望むのか」ということ。どういう状態になれば「景気がよい」といえるのか。とりあえずは「GDPの数字が上がれば」景気がよいといえるのだろう。GDPはお金が動かなければ上がらない。モノを作っただけでは上がらない。親しい人からプレゼントされてもGDPは上昇せず、その人がモノを売ればGDPは上がる。またお腹を空かせている人にご飯を作って食べさせるよりも、高価な宝石を与えて「それ売って何か食べな」といったほうがGDPは上がる。「それ違うよ」と言われるかもしれないが、この理解はそれほど遠くズレてはいないはず。また「それでいいんじゃん」というヒトもいるかもしれないけど「あたしの幸せはそれじゃないわ」という人もいるはず。さらに経済は効率である。不効率は不経済と同じような意味だろう。効率がよくなるのは「手がかからない」ということであり、それは「人出がいらない」ということである。それは雇用促進とは反対の方向にあり、両立させようとすれば「シーシュポスの神話」のようなお仕事をしないと生きていけないような世界となる。
経済をよくしたいとする。お金が大きく動けばGDPは上がって景気が回復する。それならばお金を使うところにお金を流せばいいはず。それならお金を貯めこむような余裕のないところにお金を流せば勝手に使ってくれるのではないか。今の世の中はそんな余裕のない人は存在しない、ということならば理解できないではない。預貯金を多くもっている人達にお金を流せばさらに貯めこむ。それを必死になって「みんなお金使ってください」とアピールする。もちろん認識が違っているかもしれないし、認識が正しくてもそこには何かしらの意義があるのかもしれない。そこはぜひとも教えて欲しい。ほんとうのこと言ってくれるかどうかわからないけど。
本書で提案している「地域通貨」は現状に影響を与えうる一つの方法だろう。これも含めた「試行錯誤の方法」を数多く試みる前提として有効と思われるのは、今では鳴りを潜めてしまった感がある「地方分権」の実現ではないのか。しかし一部の人間はそれを許さないだろう。「時期尚早」「現実性に欠ける」の大合唱が想像できる。彼らの言う「地方活性化」は「地方分権」を伴わない。地方を活性化すればするほど抜けられなくなるのは容易に想像できる。もちろん当事者にとって一時的「お得」なこともあるだろう。でもほんとにいいんですか?それで。
- 感想投稿日 : 2014年10月6日
- 読了日 : 2014年10月6日
- 本棚登録日 : 2014年10月6日
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