倫理という力 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社 (2001年3月19日発売)
3.09
  • (5)
  • (6)
  • (29)
  • (2)
  • (5)
本棚登録 : 226
感想 : 17

永井均のニーチェ的倫理学に慣れると、こういうのは非常に生ぬるい倫理学として感ぜられるけれど、この人はこの人でかなり鋭いところまで行こうとしているけれども、それを自ら放棄してもいるのがもったいないような微妙なような気がする。我々が倫理を唱えるとき、そこには必ずといってよいほどに「共同体」がある。すなわち我々の倫理は共同体を維持するためにあるといっても過言ではない、といったところから著者の倫理概念は始まる。しかし、仮に共同体を維持するためであっても、それはある意味で形式に過ぎない。それならば、その形式を作用させるための動力が必要なのではないか?そしてその動力を我々は見つけられはしないだろう、その正体を探り当てられはしないだろう、しかしそれに名前を与えるならば「倫理の原液」と呼ばれるのであろう。ある意味、ここで著者の議論は終わっているともいえる。なぜならば、倫理の原液は探り当てられぬ、ものであるからである。とはいえ、著者の議論は一応は続いてく。同じことを延々と繰り返すのかと思っていたら、異なるアプローチで形式と原液に迫ろうと模索している。一応、著者が言う倫理はある意味でカントの唱える形式に近しいとも言える。つまり、定言命法であり、それは普遍的な道徳とも言える。共同体のための道徳は普遍的道徳に相反することもあるが、しかし、原液はそこには反しないだろう。そこから、共同体と原液が分裂していく。実際に共同体同士が争うこともあり、そうである以上、そこには普遍的な倫理は存在しえない。だからこそ共同体から逃れられないとしても、倫理が表出するときにそこに共同体があるとしても、そこから離れなければならない。ここで著者は宗教を考える。宗教には静的なものと、動的なものがある。静的なものは、ある意味自己完結した宗教であり、動的な宗教とはそこから連綿と広がっていくものである。それは人の間をすら越えていく。つまり、イエスによる隣人を哀れめ、という教えである。ある意味でそれらの教えは実践的であり、それらは自然と波紋を描くようにして広がっていくのである。著者はそこにもやはり原液に近しいものがあると述べる。だが、それはより能動的なものとも言える。それでは神とは何なのか?著者は神に祈ることは非宗教的であると言う、なぜなら、その際の神は人間にとって都合のいい存在の神でしかないからである。しかし、神とはそうではない。それでは神について明晰に思索を続ければそれはスピノザが言うような実体となる。それは唯一の実体であり、それが唯一の必然であり、それが我々の総体たりうるものである。その実体を受け入れ認めることによって、それをあるがままに愛することによって我々は普遍的な倫理を得られる。そしてそれはものをあるがままに愛することに通じていく。ものを支配するのではなくてものをありのままに愛していく。人間も機械も、ものも同一である。そこに命がある。その命に触れるのである。その命を形作っていくのである。その息吹を見つけるのである。そうして、我々はそこから倫理の原液に近しいものを得るのである。結局のところ、著者の最初の主張に戻ってくる。我々は形式に従う。その形式を明らかにすることはできても、その形式の動力を探り当てられはしない。ただ、どういったときにそれがめぐるのか、そいうったことだけは辛うじて推論できる。最終的に我々は疑問を持ってはいけないのである。ただ、愛さなければならないのである、と著者は言うのであろう。まるで、同意できないけれど、著者はそう言うのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学、思想
感想投稿日 : 2011年10月4日
読了日 : 2011年10月4日
本棚登録日 : 2011年10月4日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする