河岸忘日抄 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (2008年4月25日発売)
4.02
  • (74)
  • (59)
  • (49)
  • (8)
  • (2)
本棚登録 : 784
感想 : 64
5

職を辞して日本を離れ、ぼんやりと日を忘れて過ごすためにフランスへ渡った「彼」は、旧知の老人が所有する居住用の船に暮らし始める。「可動式河岸」でありながら移動できない繋留された船の上で、ふとした言葉や何かのサインのように目の前に現れるキーワードに導かれ、綴られる思考の航跡。もはや青年ではなさそうな独り身の男性の、食事を作り、珈琲を淹れ、市場へ買い出しに行き、郵便配達夫や大家たる老人たちと言葉を交わし、本を読んで音楽を聴き、水に揺られながら眠る、そんな日々が、綴られる思考の背景として季節のめぐりをぼんやりと写し込みながら描かれる本作は、まさに流れゆく時間の河岸から届けられる手紙のよう。
異国での船で淡々と反復される日々の営為――堀江氏の端正な文章には生々しさがなく、日常感のある非日常とも、あるいは非日常感のある日常とも言える不思議な確かさと遠さが感じられて、読んでいるこちらも動かない船に揺られながら音楽を聴いているような心地になる。きっぱりとした宣言や明確な主張を切れ味よく語ることは、実は簡単で。そうではなく、ぼんやりと視界を横切っていくもの、心にふとよぎる思い、そうしたものの曖昧さを曖昧にしたまま、端正な言葉で精緻に表現していく堀江氏の筆力には感動さえ覚える。
断章形式で綴られ、思考が呼び起こす連想のままにトピックが動いていくこの作品は、季節の流れに沿って描かれている出来事に焦点を当てれば一つの大きなストーリーもあることはあるが、物語の前から重ねられている日々と物語の後も続いていく日々の、ほんの合間の「忘日抄」として、あえて区切りをつけない一束の言葉たちとして読むとき、一層の豊かさが輝く。何かが終わるわけでも、始まるわけでもない、けれど少し新しい景色が顔を覗かせるラストが、嵐も過去も別れも飲み込んで流れていく時の川の河岸に立つ「彼」の、「動かずに移動する」新たな一歩を予感させてなんとも充足した読後感。
決める、断じる、物事の輪郭を見極め、価値や意味を見出しながら進む。そんな生き方が是とされがちな現代、自分が暮らす船の対岸側からの見た目すら確かめないまま贅沢にためらい続け、受け身ではない待機としての現状維持の日々を送る「彼」の在り方に、なぜかとても憧憬を呼び起こされる作品でもある。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本:現代(2000-)
感想投稿日 : 2020年12月18日
読了日 : 2020年12月18日
本棚登録日 : 2020年12月18日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする