シーシュポスの神話 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (1969年7月17日発売)
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無限の神に有限の身体。その間に挟まれてしまった"ぼく"
届かないからそっぽを向いた。
「死ぬべきものとしてとことん生き抜いてやろうじゃないの」

不屈の反抗児カミュ。
このひとのことばは緻密さにあるのではなく、反抗という飛躍によって突き動かされている。
だから、どうしたってどうしようもなくへそまがりで頑固。前を見ながら後ろを見るということを平気でやってのける。それは有限と無限の合わせ鏡によってなされる。キルケゴールとヤスパースの比較がそれだ。
永遠という神にはどうしたってこの有限の者はなりえない。だったら永遠なんて幻からは背を向けてもう一度有限の身体に戻ろうではないか。目覚めた精神によって、存在する者から実存へ飛躍する瞬間。
これが哲学上の自殺だ。永遠から背き、限界を受け容れる。無限に辿り着くことが叶わない。そんなものならいらないと、再び有限に帰っても、そこに映るのは無限によって映される己の姿だったのだ。
有限と無限の合わせ鏡の間に立つこの"ぼく"はそれゆえにどこまで行っても異邦人なのだ。
死にながら生きる。これが不条理でなかったらなんだというのだ。

ニーチェはこの間に立ってついに発狂した。カミュはそうならないためにも、実存に帰れと反抗を説く。岩を押し上げてはまた戻されるような、くり返される無意味な日常。そこで目覚めてしまった精神はとどまることを知らず、身体からの脱出を試みる。それに抗い精神をつなぎとめて生きよと。
どうしてこうも力強く反抗できるか。それは「すべては許されている」この一点に尽きる。
有限と無限に引き裂かれてもなお残る、この"ぼく"はなんなのだ。どんなに反抗しても、不条理は今、ここに在る。無限でもあり、有限でもある。無限でもなければ、有限でもない。
在るようにしか、在れない。ぐるっと回ってまた戻って来てしまう。そう「すべてよし」だったのだ。「ある」と「ない」から、「存在」が抽きだされる弁証法。

では実存として、存在として、不条理として立ち返ってしまうことはどういうことをもたらすのか。彼は演劇や小説、芸術に触れて考える。不条理を表現することで、不条理を見つめ続けよ。表現しえないものに反抗して表現をし続けろ。この不毛な行いの中に希望などない。そんなものまやかしに過ぎない。しかも、やめることなどできない。やめたら表現しえた可能性としての不条理が表現されなくなる。それはふたたび有限と無限に引き裂かれる苦しみにさいなまれることを意味する。夭折や死刑が罪だというのはここで初めて言えるのだ。
ところが、それでも不条理にとっては、表現されてもされなくても、なんら不条理に変わりがないのだ。書くことに慰め以上のことはない。この恐ろしいまでの自由。その自由に則って死に赴く。これが幸運と呼ばれるものだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 評論・哲学・宗教
感想投稿日 : 2015年2月17日
読了日 : 2015年2月17日
本棚登録日 : 2015年2月17日

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