論理哲学論考 (ちくま学芸文庫 ウ 15-1)

  • 筑摩書房 (2005年5月1日発売)
3.59
  • (7)
  • (6)
  • (21)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 106
感想 : 9
5

池田某が奇妙で変だと言っていたが、本当にウィトゲンシュタインというひとは変わっていると思う。すべてが今までの逆をいっているのだ。ヘーゲルの論理学とは正反対の考え方をする。
ヘーゲルは「有」と「無」という疑いようもないものから始めて、必然を伴う「現実」「現象」へとたどり着いた。一方のウィトゲンシュタインはこれとは逆に、「現象」を砕いていって、「沈黙しなければならぬもの」へとたどり着いた。
ウィトゲンシュタインは、真理とはなんだろうと考えるのではなく、考えられるものはなんだろうと考える。ヘーゲルが存在から弁証法をもって世界の広がりを見せた。ウィトゲンシュタインは、世界の形式をもって存在へと収斂する。ふたりとも、世界がどのようなものであるかに驚くのではなく、世界が在るということに驚いている。「無い」ということは論理上、存在しなければならない。しかし、決して語ることはできない。語れるとしたら同語反復という形がかあるいは「無いは有る、ではない」という形でしかない。「有る」ということも同じで、いかに正しい命題形式でも、「有るということは有る」をまず認めなければならない。「有る」という要素を語ることがどうやっても同語反復でするか「有るは無い、ではない」という矛盾で示すしかない。これが写像形式だというのだ。有るは有るということなら、事象も同じ形をとっているはずだ。そうでなければ、命題として反映されないはずだ。事象が存在するのではなく、事象の形式が存在しなければならない。これが形式パラノイアと言われるゆえんであろうか。
哲学は科学ではない。世界に何の変化も与えない。哲学は世界を明晰にし、再構築するものだから。すべてが従うところを掴んでしまえば、その枝葉の先も掴んだと同然だ。書評のラムザや訳者のあとがきには、すべてを表現しきれてはいない、その根拠が足りない、わからないと責めていたが、なぜ納得できないのかわからない。だってウィトゲンシュタインは「存在」という世界の本質から始めているのだから。存在の表現の形式が明らかになれば、すべての存在が表現できる、このどこがわからないのか。
世界は論理(ことば)だ。哲学が考えるのはその論理を論理たらしめているのは何かということだ。しかし、いくら何を語ろうとも、ひとにはそれがなんであるか考えることができないようになっているのだ。真にことばにできない存在というのを考えることができないのだ。それもこれも、「真」ということばをどういうわけかもって生まれてしまってるということに起因する。
だから、彼はそれを「不可知」と表現するのではなく、「沈黙」と言ったのだ。自分の死後が想像できないように、自分ではない存在についてわからないように、どうしても「言えない」のだ。
だから彼は、沈黙したのだ。哲学のすべての問題を解決したというよりは、沈黙するより他ないところに行きついてしまったのだ。ニーチェのように狂気に落ちることさえもできないというところまで。
哲学探究ではどのように彼が戻ってくるのか。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 評論・哲学・宗教
感想投稿日 : 2015年10月18日
読了日 : 2015年10月18日
本棚登録日 : 2015年10月18日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする