永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04)

著者 :
  • 太田出版 (2013年3月8日発売)
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感想 : 103
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本書は漂白しようにも拭いきれないイデオロギー臭に満ちています。
「朝日新聞書評(2013/6/16)で大絶賛された」実績は伊達ではありません。
私も言動に問題有りだと思っている石原慎太郎ですが、本書では彼を品性の無い言葉で罵っています。
このように感情的で下品な言い回しを活字にしている書物を絶賛する新聞社もどうかと思います。

本書ではアジアとアメリカとで日本が戦後にダブルスタンダードな対応をとってきたことを批判します。
しかしその批判の内容は、総じて自身のイデオロギーに反する政府の決定を「侮辱」として片づけているにすぎません。
難しく考える必要はありません。
日本が中国に対して敗戦を認めない理由、それは8月15日の時点で日本軍が大陸に戦線を張っていたという事実です。
ロシア(ソ連)に対して敗戦を認めない理由、それは中立条約の一方的破棄ゆえの、倫理的に敗戦していない感覚です。
朝鮮半島の国家に対して敗戦を認めない理由、それは戦ってすらいないからです。
第一次大戦でドイツが禍根を残すほどに敗戦を認めたがらなかったことと状況が似ています。

でも実際に日本は敗戦を迎えました。終戦ではなく敗戦を強調することに本書と同じく、私もためらいません。
終戦という言葉でお茶を濁すのはやめにしようという思いに賛同します。
敗戦を終戦と置き換えることによって、当時の日本人が当事者意識をどこかに投げ捨てたことは欺瞞です。

だからといって敗戦という事実に則して、馬鹿正直に現代日本の行動原理をも敗戦を前提にする必要があったのでしょうか。
こんなことを言うと、それこそ著者のいう侮辱であり、欺瞞であり、なんて不誠実な対応なんだと怒られそうです。
しかし、その憤怒発露の理由は、著者が国際社会における客観的正義の存在を信じる優等生だからです。

戦後日本が語ってきた欺瞞は内政に外交に大変有効でした。
内政的には、敗戦の現実を受け入れることによる社会不安を緩和しました。
社会主義革命や暴動などを抑えてきた実績があります。少なくともそのように見えます。
冷静に考えればあんなファナティックな戦争の後で本土進攻がされないまま占領されたにもかかわらず、旧軍による反乱や革命が起きない方が不思議であって、イラク戦争やアフガン戦争みたいに収拾つかない方が当たり前のはずです。
だから敗戦という事実を知りながら、敗戦といわず終戦と言ってきたのです。敗戦が人に与える鬱屈を緩和し封印するために。
まだやれた感、勝てなかったが負けてはいない感、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の強がり、そんなものは全て幻想です。
今となっては欺瞞であることは百も承知ですが、敗戦直後の混乱と無政府状態を回避するため実際に強がる人をそうやってガス抜きしてきたのです。

そして冷戦時代においてはパワーポリティクスを生き抜くため、必死でばかなふりをしてそれを終戦だと言い張ってきたのです。
もう、敗戦という事実から与えられるダメージを終戦と置き換えることにより最小限に抑えたかったのです。
なにしろ干戈を直接交えなかったものの、冷戦という世界戦争の最前線で戦っていたのですから。

そんな苦しい工夫から得られた果実を戦後散々ほおばっておいて、今だれが大上段から批判できるでしょう。
少なくとも本書のようにイデオロギー的な観点から感情的に批判するのは的が外れていると言わざるを得ない。
また、あまりにも言い回しが扇動的すぎて、一部のそういう思想の人からは共感を得ても日本人の大勢の支持は得られないでしょう。

しかし、その果実も時代が代わり食べどころが無くなってしまっているのは事実です。
これからは、この終戦という用法を批判をしましょう。批判は、戦後そうしてきたように、これからの日本が生きるための建設的で国際的時流にあった批判であるべきなのです。敗戦という事実が武器にだってなりうる可能性すら考慮に入れることは、やはり欺瞞でしょうか。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2016年11月30日
読了日 : 2016年11月30日
本棚登録日 : 2016年11月30日

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