前回本腰入れて鑑賞したのは2012年11月。もう何回見たのか判然としない。
最近好きな映画については、自分語り含めて言葉を尽くして思い入れたっぷりに書いてしまう自分に困っているが……この映画、細部が血肉化しすぎて、これ以上何をどう書いていいのやら。
ファミマが出るのがいい、とか、意外と都市生活者だ、とか、学校の同級生や先生との関係とか、具体化すると永遠に考え続けられるので、やめる。
1995年公開作品だが、初鑑賞したのはテレビにて1996年、私13歳。
そりゃあもう、物を書く少し年上の雫に、何か思わないはずはない。
そして当時から3倍近く生きようとするいまも、当時や、その後数回見た自分とは、違う感想を持っているはずだが、もう感想を細分化できない状態まで煮詰まってしまっている。
今回感じたのは、とにかく聖司のキ・モ・チ・ワ・ル・サ!
ただしその裡にはかなりの割合、愛しさが含まれている。
そして毎度感じることだが、雫の将来選択への逡巡やひたむきさへの共感。
何でも、駿は元気いっぱいに雫を描きたかったが、監督の近藤喜文は、行動する前にいったん考える少女として描きたくて、かなりバチバチしたのだとか。
駿と勲の映画を作ることを目的にして作られたスタジオの中で、初めて別の考えが表面化した、記念すべき作品でもある(→その後、森田や吾朗ではなく米林へと引き継がれた傾向)。
ネット上には、耳すまを見ると鬱で死にたくなるという感想が多い。
私も99%同感で、「小さな恋のメロディ」と同じく「あの頃の甘酸っぱさをもうやり直せない」という事実に絶望し。顔が強張りつつも、それでも頬が緩んでしまう瞬間が、本作にはあるのだ。
一応人の親になったのだから、娘の十年後を想って頬が緩んでしまったということも、ある。
となると作中に少女の父や、擬似的な祖父やが登場する……これすべて少女憧憬に対する全年代が網羅されているわけだ。
かくして少女憧憬者にとっては、自分が少女でもあり(その恋人でもあり)父でもあり祖父でもある、永遠にたどり着けない幸福の内側と外側を体験できる、いわば永久機関に、本作は成ってしまった。
ルイス・キャロルが本作を見たらどう思うのか。
大林宣彦の感想も聞きたかったな。
- 感想投稿日 : 2020年8月17日
- 読了日 : 2020年8月17日
- 本棚登録日 : 2020年8月17日
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