農業への思い入れ、父親との関係、賢治の死後に弟がプロデューサー的役割を果たしたことなど、宮沢賢治の生涯が簡潔にまとめられている。
中学卒業後は家業を手伝っていたが、父親に上級学校の受験を許可され、盛岡高等農林学校に合格した。口頭試問では、「日本の人口はますます増えて米が足りなくなる。よい米をたくさんとれるようにして国民生活を安定させたい」と答えた。
農林学校を卒業後、7ヶ月間東京で過ごしたが、妹トシの病気を機に帰郷し、翌年春から農学校の教師として働き始めた。この4年間に「春と修羅」「注文の多い料理店」も出版している。
30歳で教師を辞めると、トシが療養していた別宅を改装して羅須地人協会を大正15年に発足した。賢治はここで畑を耕したり、農業指導や肥料相談に出かけたりしながら、音楽の練習をしたり、子供たちに童話を聴かせたりした。
32歳になった昭和3年、肺結核を発病したが、小康状態になった昭和6年春から化学肥料のセールスマンとして働き始めた。同年9月に東京に向かった際、両親に宛てた遺書をしたためたほど激しく発熱したが、かろうじて花巻の戻ると療養生活に入った。この間に「グスコーブドリの伝記」を発表。昭和8年9月に37歳で急性肺炎のため逝去した。
賢治の死後、弟清六が原稿用紙や手帳、ノート類を整理・保管し、プロデューサー的役割を果たした。トランクの中から発見された「雨ニモマケズ」は、昭和9年に岩手日報に遺作として掲載された後、名作選などで活字化され、第二次大戦中の昭和17年には大政翼賛会の「詩歌翼賛」に、戦後は教科書に掲載され、日本人の心に刻まれるようになった。
- 感想投稿日 : 2015年7月22日
- 読了日 : 2015年7月22日
- 本棚登録日 : 2015年7月22日
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