日本文明と近代西洋 「鎖国」再考 (NHKブックス)

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  • NHK出版 (1991年6月1日発売)
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幕末の開国当時、国際的に取引されていた主要商品は、すべて国内で自給できていたことが、自由貿易でも日本がアジア中枢部との競争に勝つことができたという内容。銀の流出を止めるために商品の国産化を推進して成功し、鎖国をしていたにも関わらず国内の経済は活性だったことがわかる。

中世末から近世初期にかけて、日本とヨーロッパは多くの物産を、それ以前からアラビアから中国まで広がっていたアジア貿易圏から輸入した。ヨーロッパが提供できたのは、武器とラテン・アメリカから掠奪した金銀しかなく、日本も戦国時代に進んだ鉱山開発によって保有していた金銀銅を輸出した。

ヨーロッパ人が東インドに到着する以前、インド洋圏ではインド人、インドネシア人が主体となって、香料諸島の胡椒・香辛料、ヨーロッパの銀、インドの木綿を交換する三角貿易が行われていた。ポルトガル人はこの中継貿易を武力で奪い取り、西方の拠点だった中東→ヴェニスをリスボン→アントワープに移した。17世紀に貿易の覇権はオランダとイギリスに移ったが、香料諸島の利権をオランダに奪われたイギリスはインドに退いたことから、インド木綿がヨーロッパに輸出されるようになった。1660年代後半から約百年間、アジアからの輸入の3分の2をインド木綿を中心とする織物が占めるようになった。インド綿布は、イギリス国内の羊毛・絹工業を危機に陥れたが、1700年にキャラコ輸入禁止法が発布されると、イギリスの綿工業は西インド諸島のプランテーションから供給された原綿によって発展した。

鎌倉期に一度途絶えた日本への綿の伝来は、15世紀末から16世紀初頭に再伝来し、綿作は日本一円に広がった。国産綿布は厚手のものだったため、冬季の生活に取り入れられた。綿作は、17世紀末から18世紀初期に多肥・労働集約型農法の典型として、畿内に集中した後、近世後半には瀬戸内地域が台頭して、江戸経済の最高段階をもたらした。

開国後の西洋列強の販売品目の中心は木綿と砂糖で、日本からの購入品は生糸と茶だった。輸入の中心はイギリス製品だった。イギリスは、アメリカのプランテーションで栽培した綿花をイギリスで製品に仕上げて世界に販売していた。茶は19世紀半ばまでは中国、それ以降はインドとセイロンのプランテーションで栽培されていた。生糸は、フランスやイタリア、アメリカの絹織物業の原料として中国から輸入されていた。これらは、日本が近代世界システムに参入する前から国際商品として取引されていたものだったが、いずれも19世紀初めまでに国産化による輸入代替化が完成していた。日本は保護関税をもうける権利を奪われており、イギリスとは自由貿易で相対したことは、商品の価格差がものをいう競争条件が整っていたことを意味する。

木綿は、日本では冬にも着用されたが、ヨーロッパでは夏用で、冬には毛織物を用いた。幕末に輸入された木綿は薄地のため、日本の木綿の代用にはならず、価格競争していなかった。19世紀半ばにいち早く紡績機械を導入して太糸の生産力が上昇したインドからの輸入は、1890年以降に急増して在来の手紡績業が打撃を被ったが、明治30年前後に日本の紡績業が機械化すると、インドに比べて労働力の質が高い日本がその競争に勝った。この結果、かつて中国・朝鮮から日本への木綿の流れは、日本から中国・インドへと逆転した。

サトウキビは、インドより中国、台湾、琉球、日本へと伝播した。1624年にオランダが台湾を領有してからサトウキビ生産を奨励し、鄭成功が占拠後はさらに増産されて、主に日本に輸出された。17世紀の日本の砂糖輸入量はイギリスよりも多かった。吉宗の時代にサトウキビの国産化が奨励され、讃岐・阿波・薩摩をはじめとして各地に砂糖生産が発展し、1830年代には国内糖で自給の域に達した。開国後はインドネシア原産の砂糖が中国や台湾から流入して自給率は2割に減少したが、日清戦争の勝利によって台湾を占有すると、サトウキビの品種改良を行い、収穫高は30年で16倍になり、世界各地に輸出されるようになった。

イギリスと日本は、生産革命によってアジア中枢部への貴金属の流出の危機から脱却し、最初の工業国となった。

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感想投稿日 : 2016年10月22日
読了日 : 2016年10月22日
本棚登録日 : 2016年10月22日

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