それなりに丁寧に読んだが、敗北。フランス人の書く物は殆ど意味がわからない。しかしバルト自身が言うように、それは「何かを示してはいる」。バルトの周辺(特に、サルトル)を巡った上で、もう一度読み直す必要があるだろう。
辛うじて意味を掬い取ることができた言葉は、次の一節。
「さて、いかなる「形式」もまた「価値」である。それゆえ言語と文体とのあいだには、もうひとつの形式的実体が存在する余地がある。エクリチュールである。どのような文学形式においても、ひとつの調子――エートスと言ってもよい――の全面的な選択がなされており、まさにその選択において作家ははっきりと自分の個性をあらわす。その選択においてこそ、作家は社会参加をするからである。言語と文体は、言語活動のいかなる問題提起にも先だつ所与であり、「時代」と生物学的な個人とから自然と生まれたものである。だが、作家の形式的な独自性がほんとうに確立されるのは、文法の規範や文体の基調が定着するところのその外部にほかならない。そこで書かれ、集められ、はじめはまったく無垢な言語的性質のなかに隠されていた連続体が、ついにはひとつの全体的な記号となり、人間としての行動の選択となって、ある種の「善」の主張となる。そうして幸福や不安の明証と伝達とに作家をかかわらせ、作家の言葉の規範的だが独特な形式を他者の壮大な「歴史」へと結びつけてゆく。言語と文体は絶対的な力であるが、エクリチュールは歴史との連帯行為である。言語と文体は対象であるが、エクリチュールは機能である。すなわち、創造と社会とのあいだの関係であり、社会的な目的によって変化した文学言語である。人間としての意図によってとらえられ、そうして「歴史」の大いなる危機結びつけられた形式である。」(p21〜22)
この本においてはエクリチュールの概念は定まっていないので、多様な読み方が可能であろう。
「社会参加としての言語活動」
その意味が僕のなかで明らかになるまで、しばらくはこのことを心に留めておきたい。
- 感想投稿日 : 2009年6月11日
- 読了日 : 2009年6月11日
- 本棚登録日 : 2009年6月11日
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