大川周明 イスラームと天皇のはざまで

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  • 青土社 (2010年8月10日発売)
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尊敬するイスラエル研究者の臼杵陽さんが大川周明を論じる、それも「イスラームと天皇のはざま」という副題をつけて。これは興味をひかれずにいられない。
大川周明と言えばA級戦犯として東京裁判で裁かれたものの、東条の頭をたたくなど奇行のせいで免責され生きながらえた人物としてしか知らなかったが、儒学宋学など東洋思想に造詣が深く、日本におけるイスラーム研究の先駆であったという。本書では、戦後早い時期から大川の業績の再評価をうったえた竹内好にならい、日本帝国主義イデオローグとしての大川への批判をいったんおき、大川自身の内在的論理から、そのイスラーム理解における断層を検討している。
著者の議論をまとめて言えば、初期の大川はイスラームの「2つの側面」のうち、内面的信仰を重んじるスーフィズム的なものに強くひかれる様子を見せながらも、1913年頃にはアジアに対する西欧の植民地化に憤激、その克服のためには内面的・個人的生活と外面的・社会生活の統合が必要であると考えるようになる。ここから大川は、天皇と日本国民が一体となる日本国家の改造、そしてそのような日本を指導的地位におくアジアをめざす超国家主義の道を歩み始めることになる。そのイスラーム理解における現れが、「政治と宗教が一体となって間髪を入れぬ」イスラームの律法的側面への関心の転回であった。
著者は、大川が日本帝国主義のイデオローグとして祭り上げられたことは基本的に本人の責任ではなく、民間人ではただひとりA級戦犯として東京裁判にかけられたことを不当であると考えており、フセインを死刑に処したイラク高等裁判とならべて「勝者の裁き」を批判することさえしている。イラク裁判と東京裁判が勝者による裁判であったことは事実そのとおりであるし、大川がA級裁判として起訴されたことが不当であったというのもその通りかもしれない。だが大川に対する一面的断罪を批判するのであれば、大川自身の内在的論理がはらむ問題についても、もうすこし自身の言葉で突っ込んだ批判をすべきではなかったのだろうか。どうしてもこれまで否定的評価が強かった大川を擁護する構えが強く、特にイラク法廷と連関させる章の議論は、ややバランスを欠いているように見えるのである。
「アジアは一つ」はたしかに大川というより岡倉天心の思想だったかもしれないが、さまざまな思想を取り入れて自身のものにしてきた日本こそがもっとも「アジア」的なものを体現しており、したがって西洋の克服において指導的地位を占め得るという歪んだ自民族中心主義は、大川自身の議論からも明らかに見てとることができる。理想主義から英雄を重視した大川のイスラーム論も、現代の水準から見ればあまりにも多様な社会と多様な人々の存在を無視した大上段な議論であり、彼のうつくしき理想論にひそむ傲慢さと暴力性はショッキングですらある。
もちろん臼杵氏自身はそうした問題点をよく承知しているだろう。ただ、専門的なテーマをあつかった研究書とはいえ一般読者も接近する書物にしては、当時の「アジア主義」のはらんでいた問題性に関する分析が、大川の思想再評価の陰で弱くなりすぎているように感じるのである。実際、本書以外の大川周明関連書籍のレビューをざっと見ただけでも、彼のアジア主義の問題点から目を背けて歴史修正主義にも通じかねないような見解が多く目につく。日本帝国主義イデオロギーの問題点が広く共有されているような文脈で読まれるとはもはや限らない現状においては、もうすこし異なる書き方が必要だったのではないかと思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 歴史と社会
感想投稿日 : 2015年5月3日
読了日 : 2015年4月28日
本棚登録日 : 2015年4月28日

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