放浪記 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (1979年10月2日発売)
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本棚登録 : 1140
感想 : 103
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 故 森光子さんが2000回以上も公演を行った舞台の原作。たまたま実家の本棚で見つけ、読んでみたいと積読したまま約20年も経ってしまった。
 一頁目「放浪記以前」という章。
 「私は宿命的に放浪者である。私は古里というものを持たない。・・・故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人である私は、この恋いしや古里の歌を、随分侘しい気持ちで習ったものであった。・・・今の私の父は養父である。・・・人生の半分は苦労で埋もれていた人だ。私は母の連れ子となって、この父と一緒になると、ほとんど住家というものを持たないで暮らして来た。どこへ行っても木賃宿ばかりの生活だった。・・・」
 この悲しく苦労続きだった人生を、しかし詩情豊かに書いていくこの人の文章を私は「好きだ」と思って読み始めた。
 子供のころの思い出「放浪記以前」を経て、東京に来てからの日記が始まる。もともとは愛人を追って上京し、彼の学費を稼いであげたりしたそうなのだが、卒業すると彼は尾道に帰って結婚してしまった。芙美子さんは絶望するが親元は帰る気にもなれず、下女や女中やカフェーの女給などの職を転々としたり出版社に売れない詩や童話を持っていったり、時々上京してくる両親と一緒に行商をしたりして、食べていくだけのお金を稼げたり稼げなかったりの生活を送っていた。
 第一部、第二部は貧しい生活を書きながらも情緒豊かな表現が散らばっている。

「私は毎日セルロイドの色塗りに通っている。・・・私が色塗りをした蝶々のおさげ止めは、懐かしいスヴニールとなって、今頃は何処へ散乱して行っていることだろう・・・朝の七時から、夕方の五時まで、私達の周囲は、ゆでイカのような色をしたセルロイドの蝶々やキューピーでいっぱいだ。」 
 芙美子さんは意図していなかったかもしれないが、“スヴニール”、“セルロイド”、“おさげ止め”といった具体的な単語一つ一つでさえ、現代の読者がぼんやりとした輪郭しか知らない大正時代に色を付けていく。
 
(自分を捨てて尾道の因島に帰った愛人を訪ねて島へ行ったとき)「牛二匹。腐れた藁屋根。レモンの丘。チャボが花のように群れた庭。一月の太陽は、こんなところにも霧のように美しい光芒を散らしていた。」

 びっくりするような波乱万丈の人生を送る女性たちが身近に何人も登場する。十二歳の時、満州にさらわれ、その後女芸者屋に売られた初ちゃん。三十歳も年上の亭主の子供を十三歳の時に産み、いつも妾を家に連れてくる亭主と養母のために働き続けている、お君さん。
アパートの隣の部屋の住人“ベニ”は、不良パパと同居する女学生なのだが、ある日突然そのパパが詐欺横領罪で警察に連行されてしまう。似たような境遇の人達が集まってしまうのか、芙美子さんはその女性たちと姉妹のような絆を感じている。救ってあげることは出来ないが、彼女たちのことを書く時、愛情が感じられる。
「・・・時ちゃんが自転車で出前を持っていく。べらぼうな時ちゃんの自転車乗りの姿を見ていると、涙が出るほどおかしかった。とにかく、この女は自分の美しさをよく知っているから面白い。・・・」

 芙美子さんのような才女なら、もう少し要領良く生きればそんなに苦労しなくてもよかったのではないかと思いながら第一部、第二部を読んだ。情が深くて、少しお金を貯めると両親に仕送りしたり、本を買ったり、仕事を辞めてふらっと旅に出てしまったりして、その結果何日も食べることが出来ずにいる。

 しかし、第三部を読むと第一部・第二部は比較的きれいなところばかりの抜粋だったと分かる。なぜなら、第一部と第二部は戦前に出版され、検閲を恐れて発表しなかった部分が多く、第三部は戦後に出版され、第一部・第二部で発表しなかった部分を発表しているからだ。
(第一部・第二部・第三部は時系列ではなく、大正11年から大正15年までの放浪時代の日記を最初に抜粋して「女人芸術」に連載したものが第一部、その後同じ時期の日記から再度抜粋して出版したのが第二部、戦後にもう一度抜粋したのが第三部である。)
 第三部ではすさまじく彼女の極貧生活、思いが吐露されている。犬のように汚い生活。(当時の)夫から振るわれた暴力の実態。第一部、第二部ではあれほど「ああ、愛しいお母さん」と書いていた母親のことを「何をしても下手な人だ」「死んでしまえばいいのに」「あんな義父と別れさえしてくれれば、母と私はまともな生活ができるのに」などと書いている。
 本当に大変だったのだなあと第三部では思った。“私生児”ということも書かれ、複雑すぎる家庭環境から「古里を持たない」ということの本当の意味も分かった(第二部の最後にも詳しく書かれているが)。
 文学に対する彼女の見解も述べられている。「・・・捨身で書くのだ。西洋の詩人きどりではいかものなり。きどりはおあずけ。食べたいときは食べたいと書き、惚れているときは惚れましたと書く。それでよいではございませんか。」
 林芙美子さんは当時の文壇のようなところからは認められなかったようだが、人のまねをせず、“捨身”で自分の生活や思いを吐露した結果、独自のスタイルを築きあげたのだと思う。
 戦前は「貧乏を売りにする作家」や「半年間のパリ滞在をネタにする作家」、戦中は「政府お抱え作家(従軍作家)」など、常にボロカスに言われてきた作家らしいが、47歳で亡くなるまで、売れっ子作家として寝る間も惜しんでフル稼働で書き続け、母親や義父や親族一同の面倒を見ていたそうである。夢がかなった後も、“放浪”と“働き続けること”は変わらなかったらしい。
 本当は自分の赤裸々な日記など誰も人目に晒したくないと思う。林芙美子さん自身も「自分の死後は『放浪記』も絶版にするように」と言っておられたそうであるが、「読まして下さって有難うございました」という気持ちである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2020年9月28日
読了日 : 2020年9月27日
本棚登録日 : 2020年9月22日

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コメント 7件

地球っこさんのコメント
2020/10/09

Macomi55さん、はじめまして。

たくさんの「いいね」ありがとうございました。
これからよろしくお願いします。

「放浪記」わたしも読みました。
素晴らしいレビューに、読んだときの気持ちがよみがえってきました。
ありがとうございました。

nejidonさんのコメント
2020/10/09

地球っこさんがコメントされたので、私も真似してみます(*'▽')
この作品に憧れて、瀬戸内に旅したことがあります。
林芙美子さんの銅像があってね、尾道は素朴で美しい街でした。
現代のように、文章教室だのが何もなかった頃の、いわば叩き上げの作家さんです。
それだけで尊敬してしまいますね。
その昔は現国の教科書採用作品だったらしいですよ。
子どもたちが「こんなみじめな話、嫌だ」というようになって消えていったそうです。
時の流れは止められませんが、作品は残ります。今読んでもいいですよね。
長いコメントで失礼しました。

Macomi55さんのコメント
2020/10/10

地球っこさん、nejidonさん、コメントを有難うございました!とても嬉しいです。
お二人の読書量、幅の広さ、深い考察にはいつも感服しております。
読書は孤独な行為でもあり、途中でしんどくなることも正直あるのですが、感想を書いてコメントや「いいね」をもらえると嬉しくて、これからは食わず嫌いをなくしてもっと皆さんの影響を受けて色んなものを読破して感想を書くことで自分の中の記憶も鮮やかにとどめておこうと思うようになりました。
放浪記も約一世紀前の著者の日々の記録が現代の人の心に響くのだから凄いです。
どうか、今後ともよろしくお願いいたします。

地球っこさんのコメント
2020/10/10

Macomi55さん、お返事ありがとうございます。

わたしも皆さんのレビューに読みたい本か増え、コメントをいただければ思わぬポイントで盛り上がったり、
そうやって読書を楽しんでます。

でも孤独な読書もいいなと思ってます。
その世界に入っているのは自分ひとり。
そういう時間も心地よく感じたりして。

これからも他の人と感想が違っても、今の自分の心が感じることを素直に日記のように綴っていきたいと思ってます…(なので、暴走気味なレビューもありますので、あしからず 笑)

こちらこそ、どうぞよろしくお願いします(*^^*)

Macomi55さんのコメント
2020/10/10

再びのコメント有難うございます。
自分が苦手だと思っていた作家さんの本でも他の方のレビューを読んで「そういう見方もあるのか!」と発見したり、自分と同じように★5を付けている人でも感じる角度が全く異なっていたり、深くて広い発見がありますね。
今後ともよろしくお願いいたします。
また、地球っ子さんのレビューにもコメントさせて頂くと思います。

5552さんのコメント
2020/10/17

Macomi55さん、おはようございます。
フォローと拙い感想にたくさんのいいね!ありがとうございました。
『放浪記』。前から興味があったのですが、Macomi55さんのレビューを拝見してますます読みたくなってきてしまいました。
ブクログを始めて三年目に入ったくらいなのですが、前より確実に読書の幅が広がってきています。
Macomi55さんのレビューも選書の参考にさせていただきますね。

Macomi55さんのコメント
2020/10/17

5552さん、はじめまして。
こちらこそ、フォローと沢山の「いいね」とコメントを有難うございました。
5552さんの本棚を拝見するのは、とても楽しかったです。読みたくなる本やDVDを沢山紹介して頂き、有難うございました。
私は最近ブクログを始めましたが、5552さんと同じで、他の読書家さんの本棚を参考にして読書の幅が広がったり、レビューを書きたいので、前より考えながら読むようになったりしました。
今後も色々な本やDVDを紹介して下さるのをたのしみにしております。よろしくお願いいたします。

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