AIもののSFとはこの物語を端的に表すジャンルであって、しかし、この物語について何も語りきれていない気もする。
この物語は、旧態依然とした世代と新しい世代や未来世界との断絶の物語だと思う。
解説では、作品が世に出た当初の日本、すなわち田園・農村社会から急速に都市化へ移行する中間領域の社会が投影されていると論じている。
プレモダンからモダンへ、農村から都市へ、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ、田畑からビルヂングへ。
しかし、いくら鍬を捨て、ネクタイとポマードを手に入れても、蛍の光からネオンの光を手に入れても、個人も社会もなんら変容していないのではないか。
そしてこの2020年には、プレコロナとアフター・ポストコロナを巡る、「新しい生活様式」なるダサいネーミングセンスの中間領域と、その後の社会変容への恐怖を想起させる。
P16.『世間が幾本の柱で支えられているのかは知らないが、少なくともその中の三本は、不明と無知と愚かさという柱らしい』
しかし、他ならぬ「世間」とは主人公のようだった。
優秀な開発者で研究所長は奇怪な事件に巻き込まれる。
そのうちに、若い研究者たちから突きつけられる言葉が重い。
日常に平和を取り戻そうとする主人公に共感していたはずが、徐々に、彼が旧態依然とした古臭く、劣った害悪な存在に思え、代わりに若い研究者たちの思想が新しい(ナウい?)ように感じる。
P.259『結局先生は、未来というものを、日常の連続としてしか想像できなかった。(中略)断絶した未来・・・この現実を否定し、破壊してしまうかもしれないような、飛躍した未来には、やはりついて行くことができなかった。(中略)未来をただ量的現実の機械的な延長としか考えていなかった。だから観念的に未来を予測することには強い関心を寄せられたけど、現実の未来にはどうしても耐えることができなかった。」』
しかしこの頼木のセリフは実にダブルバインドである。
「先生」は量的な現実の連続体でしか未来を予測できず、頼木らはそうではない。
しかし同時に、「先生」は観念的な未来は関心を抱けるが、現実の未来には耐えられない。
すなわち、彼の言説は矛盾している。
量的とはすなわち極めて現実的・具体的・客観的であり、観念的とは抽象化された着想、思想、哲学である。
頼木が言いたかったのは具体的思考への批判だったのかそれとも抽象的思考への批判だったのだろうか。
およそ知能の発達は具体的思考を経て抽象的思考を獲得してゆく。
ピアジェらのいう具体的操作期から形式的操作期への発達である。
頼木は何を批判し、糾弾したかったのか。
そして、頼木或いは「新しい生活様式」について何を見たいのか。
この2020年にあって安部公房の物語はどれもこれも恐ろしい。
- 感想投稿日 : 2020年5月26日
- 読了日 : 2020年6月2日
- 本棚登録日 : 2020年5月24日
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