カバーを外すと、つや消しの黒い表紙。十字架と見紛うダガー。
聖書!
一瞬そう思ってしまう佇まい。
その下には、The Empire of Corpses。
そしてProject Itoh × Enjoe Toh。
このアルファベットの並びが見事である。まさに運命のツインソウル。
伊藤計劃氏プロットはきちんと円城塔氏に受け継がれるのかいう心配は無用だった。
円城塔氏が生きたまま伊藤計劃氏の霊素を上書きされ、円城塔ではなくなってしまうのではないかという心配も無用だった。
伊藤計劃は伊藤計劃であり、円城塔は円城塔であった。まさにそのままに。
円城塔氏独特の言回しは生き、しかしそれは伊藤計劃氏の世界観を追う。生とは、死とは、意識とは、魂とは。さらに科学とオカルト、実在した人物と多様な物語からの借キャラ、歴史改変と著名作品からのプロットの借用という円城塔氏のアイディアも巻き込んで。
読者は読み進めながら、辞書を引き、またはWebで検索し、その冒険を追う。
再読するなら、18-19世紀の地図帳と世界史年表を手元に用意したい。
ハダリーさえ、ワトソンが地図の上にピンを挿しそれに糸を張り巡らして作った関係図を必要としたのだ。
ハダリー、口付けしても冷たい唇。やはり生者でも屍者でもなくアンドロイドか。
単なるプロット借り、キャラ借りの再編成と言う事なかれ。
円城塔氏にとっては「蟻における太いロープ」な事を、読者に対して「目に見えぬ細い糸の連なり」に見せるという高度な芸当をやってのけたのである。他に誰がこれを真似できようか。
そういえば、円城塔氏の研究者時代のテーマは「言語」ではなかったか。
その時探求したかったことが、この作品には込められているのかもしれない。
そういう意味では、The One、ハダリー、フライデーは、ある部分、円城塔氏本人の投影でもあるのかもしれない。
エピローグⅠ。この終わり方は!
プロローグの”His last Bow”が、この「さよならの挨拶」につながるなんて。
もしワトソンが伊藤計劃氏でフライデーが円城塔氏なら、伊藤計劃氏は円城塔氏のために死んでしまったことになる。大げさな考えだろうか。
ここから先、読み終えてしばらく後も、私の瞼は潤みながら小刻みに揺れた。
そして、エピローグⅡ。
「意識」とは、常に何かを探し求めるものなのかもしれない。
自らの意識に気づいたからには、宿命なのだろうか。
『あなたがその選択の余地なき自由の中で、何を見出したのかを求め続ける。』
それは理解できる気がする。
しかし、『今のあなたの相棒であり、Mの弟であるあの探偵と敵対することになるかもしれない。それはそれで構わない。あなたをそこから引き出すためなら、多少あくどいこともしなければならないだろうと思う。』とはどういうことだろう。
The One が真実を追求し伴侶を求めるためにしたことを、まさかフライデーが再び繰り返すのだろうか。ワトソンが身を犠牲にし切り開いた未来を考えれば、それは必要ないと思うのだが。
だが私たちとて、天国から伊藤計劃氏を引き戻したい。
しかし、最後にこの物語は光を見上げる。そうなのだと思う。
感無量で些細な感想文さえなかなか仕上げられなかった、ということがあるだろうか。
カバーを外した「屍者の帝国」を神棚に上げ、天界の伊藤計劃氏に手を合わせ、
円城塔氏に、河出書房新社の方々に、長らく「屍者の帝国」の完成を待ち望みついに手にした喜びを共有する総ての読者に、そしてそれらの人たちを支えた総ての人たちへー、
「ありがとう」
フライデーの言葉を借りて。
- 感想投稿日 : 2012年8月30日
- 読了日 : 2012年8月28日
- 本棚登録日 : 2012年8月30日
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