カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

  • 新潮社 (1978年7月20日発売)
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 読んでる途中から忙しくなって結局かなり時間がかかってしまった。長編だからか登場人物に感情移入しすぎて、途中から読んでて辛くて、何度も溜息をつきながら読んでた。でも、いろんな要素が詰まってるし、内容も引き込まれるし、本当に読んでよかった本。第二部があったら、また全然違うメッセージ性があったんだろうな。
 
 イワンが「信仰はない、愛なんて分からない、全ては許されるんだ、合理性を求めるべきだ」って思ってたはずなのに、絶望の中で愛に背けず、愛故に自らを破滅させた部分が刺さった。大審問官を聞いたアリョーシャが「兄さんもその老人と一緒なんでしょ?」って言ってたこととか、イワンがアリョーシャに「どうしたら身近なものを愛せるか分からないんだ」って言ってたこととか思い出した。そんなこと言ってても、最後には愛とか良心とか神とか強く持ってるのがイワンなんだなぁと。
 イワンの愛は、自らが罪を背負おうとしすぎてて、罪の所在の真実からは遠ざかってるなと思うけど。カテリーナの愛も、真実とは遠い効果を生み出すものだった。愛による行動が、真実を遠ざけることが往々にしてあるものだなと思った。人間は絶望の淵で本当の愛に気づくことが多いし、絶望的な状況であるが故に決定的な影響を及ぼしてしまうのだなと。

 イッポリートの真相解説は、中巻で読者が、ミーチャが犯人だと仮定したときに考えるであろうこととかなり近いと思う。それを、既に読者が真実を知っている状況で、しかもミーチャの運命を決める裁判の場面で、検察側の主張として並べ立てるのは、「お前らだって前はこう考えていたんだろう?」って言ってるみたい。

 裁判の件を読んで、人の内面を全て理解するなんて不可能だし、それをはき違えて、何かを狂わせることが多々あると、強く思った。裁判という場では、堂々と他人の行動や言動の内面的理由を並べ立てることが、正当化される。第三者は、推測でしかないのに、あたかも真実であるかのように話す。それを当然の権利としている。推測が合理的に思える話であればあるほど、間違っていた時にタチが悪い。心理学は両刃の刀っていうのに共感した。真実であったとしても、人の内面を第三者がまくし立てることを正当化するなんて、裁判にかけられてる人間を侮辱しているように私には思えるけど。真実が無罪であるなら尚更。冤罪を免れるには仕方ないとはいえ、そもそも罪がないのに何故引っ掻き回されなきゃいけないんだ、っていう。
 「なぜ我々は自分の想像通りに仮定し、仮定した通りに想像しなければならないのか。」っていう言葉も印象的。先入観に左右されるものだよな。
 あとこの裁判みたいに、なんの根拠も見つからなくて訳が分からなくなったら、信じたい方を信じるだけで根拠も正義もありはしないなと思う。

 ミーチャの「人は誰しも罪を持っている。」の件も結構共感できる。不条理を生む社会の仕組みを黙認せざるを得なかったり、抗議しようにも無力さを抱えていたり。だから不条理を被る人に対して罪がある。常に意識してたら精神的に辛いだけだと思うけど、何事に対しても謙虚さを持とうっていう精神は大事だよなと思った。

 何を考えても結局、根本で信仰にぶちあたる。この本では神を信じない=信念がないとみなしている気がしたけど、この本で本当に大事にしている信仰の根幹と無宗教の人々が各々で持つ信念は同じだと思う。何を考えるにしてもその人がもつ信念とか、人はどう信念を持つべきかっていう議論になる気がしちゃう。永遠の議題。

 カラマーゾフ的というのが崇高な心と卑劣な心の両極を顕著に持ち合わせているということなら、多くの人間に当てはまるものだよな、と思う。

 最後の場面でのアリョーシャと子供達の会話に、メッセージ性を感じるなぁ。あれで締めくくるなんて、予想とは全然違かった。ドストエフスキーの温かい部分が感じられる終わり方だなぁと思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2020年6月11日
読了日 : 2020年6月7日
本棚登録日 : 2020年6月7日

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