日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

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  • 筑摩書房 (2008年11月5日発売)
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世界中の作家たちが集められたアイオワの国際創作プログラムに参加した著者の述懐からこの本は始まる。色々な言語で書くこと、色々な環境で書くこと、色々な背景を背負って書くことを考え、そこから現在普遍語となっている英語と日本語についての考察が仔細に語られてゆく。
日本語はかつて二度、亡びの危機に瀕した。一度目は明治維新において欧米諸国と対等にやっていけるようするため国語は英語にすべきと初代文部大臣森有礼が提案した時、二度目は太平洋戦争の反省のため国語をフランス語にしようと志賀直哉が発言した時。
それらの危機の時代を乗り越え、今日本語は普遍語としての地位を獲得した英語のため三度亡びの危機にあるという。
叡智を求める人は、その時代において最も叡智が多く集まる言語に接近する。その証拠に、特に自然科学分野では自分の論文に価値があると思えば思うほど、極東の一地方で話されている日本語ではなく、世界の普遍語である英語で発表を試みようとする。
そこには1933年、ケインズの『一般理論』にある原理と同様のものを発見しながら、当時力を持っていたフランス語、ドイツ語、英語のどれでもなく、母国のポーランド語で発表してしまったために誰の目にも止まらず、知的所有権を主張する論文すらも無視されたカレツキの悲劇の二の舞になってはいけないとの教訓もある。

では、日本語が亡びないようにするためには何ができるのかを考えた時、まず必要なのは世界に向けて英語で意味のある発言ができる人材を十分な数揃えることだと提言する。日本語以前に日本国家を守れる人材が必要だとの考えからだ。
今の「外国人に道を訊かれて英語で答えられる」程度の教育を学生全員に施すのではなく、少数の選ばれた、かつ優れたバイリンガル人材を能力の格差の広まりなど恐れずに養成することが必要だとする。
そうすることで、「日本の置かれた立場や日本がなした選択を、世界が納得できる形で説明」できるようになり、憂国の念は多少なりとも晴れることになる。
その上で日本語を亡びの運命から逃れさせるには、バイリンガル人材に許された能力の格差を認めず、「学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべき」だとする。
そのためには読まれるべき言葉をこれからも読みついでいくことが必須だという。

文中には福沢諭吉が病気になるまで枕がないことに気付かなかったとのエピソードが紹介される。
というのも、西洋語とその叡智が日本に入ってきた時、彼はその魅力に取りつかれ、文字通り寝る間も惜しんで書物に向かったため、普段の睡眠は机に突っ伏してか床に直に寝るかで、枕の乗った布団の上で寝ることがなかったからだという。
それほどに未知の知識は魅力があり、だからこそ今現在、そして未来において未知なる叡智が発表され続けるであろう普遍語の英語は人々の間で比重を増していき、相対的に非英語圏の国語の地位は後退せざるを得ない。
そこまでを考えていた著者が自身の作品として英語を織り交ぜた『私小説』を書いたのは、バイリンガル形式をとることで英語にだけは絶対に翻訳できなくするためもあったという。
その目論見により、「日本語が英語と違うこと」どころか、「日本語がほかのすべての世界の言葉とちがうことを、読者に直接訴えたかった」のだとする。
そう聞いて、漫然と読んでしまったその作品をもう一度読みたくなったし、同時に著者が「読まれるべき言葉」の作品である『三四郎』、本作の大部分でテキストとして使われた『想像の共同体』は読まなければいけないと思わされた。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 随筆
感想投稿日 : 2019年1月28日
読了日 : 2019年1月28日
本棚登録日 : 2019年1月28日

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