ユダヤ人絶滅を目的としたナチスによるホロコーストの主担い手と目され、潜伏していたアルゼンチンよりイスラエルによって誘拐され裁判にかけられたオットー・アードルフ・アイヒマン元SS中佐に対する、あまりにも有名なハンナ・アーレントの公判レポートである。
最初は極悪人、人非人な悪魔とみられたアイヒマンであったが、被告席に立った彼は、虚言癖があり、話しも下手で、SS(親衛隊)で出世を願いながら挫折し、逃亡先で哀れな生活を送ってきた小人物に過ぎなかった!
ホロコーストにおける彼の立場も、決して指導的な役割ではなく、ユダヤ人大量移送を行う部署の課長に過ぎず、本人は自分では一人もユダヤ人を殺したことはないと言い、移送されたユダヤ人たちの結末は知っていたが、上からの命令に従い移送しただけだと主張するのである。
当初はユダヤ人問題(!)の専門家として、ユダヤ人自身による移住組織を編成させ、彼らとともに強制移住(=追放)そして強制収容にかかわってきたアイヒマンであったが、ヒトラーがユダヤ人問題の「最終解決」(=殺戮)を指示するや、ユダヤ人問題専門家である自分とは関係なく大量虐殺が始まった。本人も「最終解決」には当初は抵抗感を感じたというが、「忠誠こそわが名誉」という親衛隊にあっては悪を識別する能力(=良心)をいとも簡単に放棄させてしまうことになる。しかも、ガス殺は総統の慈悲であるという論理に転化して・・・。
正当な法律に従って選ばれた国家の指導者が、ユダヤ人絶滅を国家の方針とし、これに逆らえないような法律を定めた時、これに反することは可能なのか?犯罪国家のもとでは、命令に反して軍事裁判にて処刑されるか、敗戦の場合は戦犯として処刑されるか、という選択肢しか残されていない中で人はどう行動できるのか?まさにアイヒマンの状況がこれにあたるというのである。
だが、裁判過程で明らかになる数々の聞くもおぞましい状況が確認された上でアーレントはいう。例え戦勝国による裁きやイスラエルによる裁きに正当性や公正さに疑問符が付けられようと、これは「平和に対する罪」や「人道に対する罪」ではなく、「人類に対する罪」であり、いかに酌量の余地があろうとも、人類が今後ともに彼と生きることを許さないだけの行為であったことは明らかであるが故に、これは極刑が相応しいと。そしてそれが、取るに足らない小人物によって成された主体性のない「陳腐な悪」であったとしても。
また、アーレントの冷徹な眼差しは、アイヒマンの裁判を通じて得られたホロコーストに関与したあらゆる人間・組織の様々なレベルの行為にも向けられている。
追放→強制収容→大量虐殺といった段階過程やナチスドイツ帝国の国内事情、さらにはヨーロッパ国々での関与の仕方を曝け出し、そこから彼らの成した罪状の数々をきわめて論理的・網羅的に暴きだしていくのである。
ユダヤ人虐殺に加担したユダヤ人組織、ナチスドイツ下でむしろ積極的に相争うように「最終解決」を推進した各庁の官僚たち、大量虐殺を推進した前線の指揮官たち、ルーマニアなどナチスドイツ以上に積極的だった国、戦争終盤には自らの政治的保身のためヒトラーに逆らい虐殺中止命令を出していたヒムラーSS長官、そして、なおドイツ国内で軽微な刑罰しか受けずにのうのうと公的役職に就いている者などなど・・・。
ユダヤ人追放も含めて、その関与の広さから「ユダヤ人問題」がこれほどヨーロッパに根深いものであったとは驚きであるが、惨たらしさと嫌悪感が充満するこの著述の中で、デンマークやブルガリア、イタリアなど、ナチスの「最終解決」圧力を無視あるいは抵抗した国があったのはわずかな救いと言うほかはない。
さらに本著作で大きな議論となった一つとして、ユダヤ人自身の行動が挙げられる。ユダヤ人自身の支援組織(追放から虐殺まで)、収容施設内での自治管理組織および虐殺およびその隠ぺい工作の担い手として、そして集団移送から収容施設にいたるまで圧倒的大多数はむしろユダヤ人側だったにもかかわらず大きな抵抗が無かったこと(ゲットー心理とか自治組織の存在、ナチスの巧みな隠ぺいや甘言などによるものか)など、本書は不都合な事実も数多く含まれていたため、裁判後のユダヤ社会においても批判の対象になったとのことである。
この著作はアイヒマン裁判のレポートということにしてあるが、あの当時を生きた同じユダヤ人として(最終的にアメリカへ亡命した)、また真実を探求する哲学者として、この裁判の行く末を見届けることで、あの惨禍を単なる過去としてではなく人類への警句として残そうとするアーレントの強い情熱と冷徹な洞察や分析が入り混じった、気迫のこもった著述であったといえるだろう。
やたら挿入文が多いのと、2重否定以上の文章の多用、それにシニカルな表現も多いためか、日本語訳としてはひどく読みずらかったが、アーレントの思考のほとばしりを感じることができて、これはこれで良かったかもしれない。
- 感想投稿日 : 2015年10月4日
- 読了日 : 2015年9月27日
- 本棚登録日 : 2015年7月26日
みんなの感想をみる