イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

  • みすず書房 (1969年9月21日発売)
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ユダヤ人絶滅を目的としたナチスによるホロコーストの主担い手と目され、潜伏していたアルゼンチンよりイスラエルによって誘拐され裁判にかけられたオットー・アードルフ・アイヒマン元SS中佐に対する、あまりにも有名なハンナ・アーレントの公判レポートである。

最初は極悪人、人非人な悪魔とみられたアイヒマンであったが、被告席に立った彼は、虚言癖があり、話しも下手で、SS(親衛隊)で出世を願いながら挫折し、逃亡先で哀れな生活を送ってきた小人物に過ぎなかった!
ホロコーストにおける彼の立場も、決して指導的な役割ではなく、ユダヤ人大量移送を行う部署の課長に過ぎず、本人は自分では一人もユダヤ人を殺したことはないと言い、移送されたユダヤ人たちの結末は知っていたが、上からの命令に従い移送しただけだと主張するのである。
当初はユダヤ人問題(!)の専門家として、ユダヤ人自身による移住組織を編成させ、彼らとともに強制移住(=追放)そして強制収容にかかわってきたアイヒマンであったが、ヒトラーがユダヤ人問題の「最終解決」(=殺戮)を指示するや、ユダヤ人問題専門家である自分とは関係なく大量虐殺が始まった。本人も「最終解決」には当初は抵抗感を感じたというが、「忠誠こそわが名誉」という親衛隊にあっては悪を識別する能力(=良心)をいとも簡単に放棄させてしまうことになる。しかも、ガス殺は総統の慈悲であるという論理に転化して・・・。
正当な法律に従って選ばれた国家の指導者が、ユダヤ人絶滅を国家の方針とし、これに逆らえないような法律を定めた時、これに反することは可能なのか?犯罪国家のもとでは、命令に反して軍事裁判にて処刑されるか、敗戦の場合は戦犯として処刑されるか、という選択肢しか残されていない中で人はどう行動できるのか?まさにアイヒマンの状況がこれにあたるというのである。
だが、裁判過程で明らかになる数々の聞くもおぞましい状況が確認された上でアーレントはいう。例え戦勝国による裁きやイスラエルによる裁きに正当性や公正さに疑問符が付けられようと、これは「平和に対する罪」や「人道に対する罪」ではなく、「人類に対する罪」であり、いかに酌量の余地があろうとも、人類が今後ともに彼と生きることを許さないだけの行為であったことは明らかであるが故に、これは極刑が相応しいと。そしてそれが、取るに足らない小人物によって成された主体性のない「陳腐な悪」であったとしても。

また、アーレントの冷徹な眼差しは、アイヒマンの裁判を通じて得られたホロコーストに関与したあらゆる人間・組織の様々なレベルの行為にも向けられている。
追放→強制収容→大量虐殺といった段階過程やナチスドイツ帝国の国内事情、さらにはヨーロッパ国々での関与の仕方を曝け出し、そこから彼らの成した罪状の数々をきわめて論理的・網羅的に暴きだしていくのである。
ユダヤ人虐殺に加担したユダヤ人組織、ナチスドイツ下でむしろ積極的に相争うように「最終解決」を推進した各庁の官僚たち、大量虐殺を推進した前線の指揮官たち、ルーマニアなどナチスドイツ以上に積極的だった国、戦争終盤には自らの政治的保身のためヒトラーに逆らい虐殺中止命令を出していたヒムラーSS長官、そして、なおドイツ国内で軽微な刑罰しか受けずにのうのうと公的役職に就いている者などなど・・・。
ユダヤ人追放も含めて、その関与の広さから「ユダヤ人問題」がこれほどヨーロッパに根深いものであったとは驚きであるが、惨たらしさと嫌悪感が充満するこの著述の中で、デンマークやブルガリア、イタリアなど、ナチスの「最終解決」圧力を無視あるいは抵抗した国があったのはわずかな救いと言うほかはない。
さらに本著作で大きな議論となった一つとして、ユダヤ人自身の行動が挙げられる。ユダヤ人自身の支援組織(追放から虐殺まで)、収容施設内での自治管理組織および虐殺およびその隠ぺい工作の担い手として、そして集団移送から収容施設にいたるまで圧倒的大多数はむしろユダヤ人側だったにもかかわらず大きな抵抗が無かったこと(ゲットー心理とか自治組織の存在、ナチスの巧みな隠ぺいや甘言などによるものか)など、本書は不都合な事実も数多く含まれていたため、裁判後のユダヤ社会においても批判の対象になったとのことである。

この著作はアイヒマン裁判のレポートということにしてあるが、あの当時を生きた同じユダヤ人として(最終的にアメリカへ亡命した)、また真実を探求する哲学者として、この裁判の行く末を見届けることで、あの惨禍を単なる過去としてではなく人類への警句として残そうとするアーレントの強い情熱と冷徹な洞察や分析が入り混じった、気迫のこもった著述であったといえるだろう。
やたら挿入文が多いのと、2重否定以上の文章の多用、それにシニカルな表現も多いためか、日本語訳としてはひどく読みずらかったが、アーレントの思考のほとばしりを感じることができて、これはこれで良かったかもしれない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学・思想
感想投稿日 : 2015年10月4日
読了日 : 2015年9月27日
本棚登録日 : 2015年7月26日

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コメント 8件

佐藤史緒さんのコメント
2015/10/10

mkt99さん、こんにちは!
私のリアル本棚にもこの本あります。まだほとんど読めてないですが。mkt99さんのレビューを読んで「読まなくちゃ」と思いました。

アイヒマンが例外的な悪というわけではなくて、同じような状況下では誰もが同じような罪を犯しうるというのがポイントですね。特に日本のような同調圧力の強い国では、いったん完成した集団の空気に個人で逆らうのは極めて困難です。だから、集団が妙な方向に向かっていると思ったら、個人の発言がまだ許容されているうちに声をあげなければ…、なんて考えてしまいました。

mkt99さんのコメント
2015/10/12

佐藤史緒さん、こんにちわ。
コメントいただきありがとうございます!(^o^)/

集団が誤った方向に進みそうだと早い段階で気が付くにはそれ相応の訓練が必要だと思いますが、そうしたスキルを身に付けた人は圧倒的に少数ですし、ましてや行動を起こすとなるとそれなりの勇気が必要なのでなかなか至難な業だともいえます。それほど数の力は圧倒的なものですし、プロパガンダも巧妙だともいえます。
自分もエラそうなことをいえた立場ではありません。
しかし、自分の場合は学生の時だったかに、ある教科書に載っていた、マルティン・ニーメラー牧師の言葉は常に肝に銘じていることにしています。
(自分は最初に目にした丸山真男の訳が好きですが、かなり意訳されているようなのと、ニーメラー牧師の言葉にも様々なバリエーションがあるようですね。)

「ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。
けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。
けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、
そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。
そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。」

佐藤史緒さんのコメント
2015/10/20

遅くなりました。返信ありがとうございますm(_ _)m

ニーメラー牧師の言葉、実に耳が痛いです。他人事と思えないですね。自分にできることは、せめて選挙をサボらずに行くことくらいでしょうか(>_<)

不勉強でして、この牧師さんの名前は初めて聞きました。丸山真男が訳しているくらいだから著名な方なのでしょうね。神学者の方でしょうか。よければ引用元、教えていただけますか? もちろん、お時間があれば、で結構です!

mkt99さんのコメント
2015/10/25

佐藤史緒さん、こんにちわ。(^o^)/

返信が遅くなり失礼いたしました!m(_ _)m

自分の場合、高校のサブテキストだったか、大学のテキストだったかは憶えていないのですが、この言葉が引用されていて、深く心に残り、何かにつけて思い出すようになりました。
ですので、自分ももともとの引用元はわからないのですが、いまウィキペディアの「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」の項をみますと、それなりに詳しい解説が書かれているようです。
自分の今回の引用は『現代政治の思想と行動』(丸山眞男)からになります。

確かにこの言葉は耳が痛いですね。こうやって心に残っていても実践はかなり厳しいものがあります。何かそれらしい兆しを捉え、自分の主義と異なっていても、誤った方向だと気がついた時、勇気を出して声をあげなければならないのですから、これは相当の鍛錬が必要かと思います。自分にとっても大きな課題です。

一方で、仰る通り、日本では選挙制度が前提の議会制民主主義が成り立っていて、わずかではありますが個人としては比較的政治への権利を行使しやすい制度が継続運用していると思うのですが、前回の総選挙の投票率は53%ほどで、前々回は60%ほど。20代にいたってはそれぞれ33%と38%ということで、これは全然高いとはいえない数字だと思います。
例えば、先だっての安保法制反対のデモ運動ですが、次期選挙に対してはボディブローのように効いてくるかもしれませんが、本気で廃案を目指していたのなら、too late。自分も今回の安保法制には反対ですが、これは安倍首相は選挙演説で安保見直しを何度も訴えてきたわけですので、いくら若者が今更たくさんデモに参加していようと、「すでに手遅れ」であり、大いに反省すべき人も多いのではないかと思います。

とはいえ、このように「その時」が来るまでなかなか我が事として認識し行動できないのがむしろ普通ではないかとも思います。
まずは個人としての感性や洞察力を磨くことでしょうかね?(>_<)

佐藤史緒さんのコメント
2015/11/06

遅くなりました!m(_ _)m
ご教示ありがとうございます。丸山眞男、名前だけ知っていて実際に読んだことがありませんが、今度読んでみようと思います。

mkt99さんの仰るとおり、時代の変化を見極めるのって難しいですよね。私も決して若いとはいえない歳ですが、物心ついて以来、こんなにあれよあれよと言う間に身の回りの法律が変えられていったのは初めてです。法律だけではなくて「空気」も違う気がします。どの本屋でも嫌韓・嫌中コーナーが設けられているのが当たり前、なんて日がくるとは思ってませんでした。20年以上も本屋通いを続けていますが…。いつからこうなったんだろうと思うと同時に、こういうのが当たり前という環境で自分の子供を育てていかなければならないのかと思うと、暗澹たる気持ちになります。

…しかし暗くなってばかりもいられないので、できることを粛々とやっていくしかないのでしょうね(某官房長官の決まり文句ではありませんが)。「まずは個人としての感性と洞察力を磨くこと」。ココロにとどめておきます!

mkt99さんのコメント
2015/11/08

佐藤史緒さん、こんにちわ。(^o^)/

学生時代に丸山真男・愛の後輩がいて(笑)、自分の場合はその影響です。(笑)
自分もひさしぶりに丸山真男の著作を何か読んでみようかな。(笑)

ホント、何か「空気」が変わった感じはありますね。ネットの普及が「空気」の変化の加速化を促しているような気もします。不特定多数の匿名の、無責任な発言の横行が悪い方向への導いている状況もあるのではないでしょうか。
自分は韓国ドラマは観ませんし別に好きでも嫌いでもなく、逆に中国指圧マッサージは大好きですが(笑)特に中国も好きでも嫌いでもないのですが、本屋で平気で「嫌韓・嫌中」コーナーを見かけますと自分も暗い気分になります。どの本屋にもあるということは需要が大きいということですよね。
いまは当3国の政治的な思惑が強く出て感情論が先んじることになってしまっていますが、本来、政治や国家戦略等の国益と憎悪の感情とは別もののはずであり、ここに「嫌」という文字を使っていること自体に何か作為的なものを感じます。
憎しみの応酬から何か建設的なものが産まれてくるとは思えません。「嫌」のような煽動的なものは排除して、まずは感情論を鎮めることが必要かと思います。政治や国家戦略も冷静なもののはずですしね。
「嫌」を前面に出すなど愚かなことだと、みなさん早く気が付いてほしいですね。

χαιρομἐνさんのコメント
2017/11/09

興味深く拝読しました。ただ、アレントは「真実を探求する哲学者」ではなく、むしろそういったアイデンティティを嫌い、拒否し通した思想家だったという点に、僭越ながら注意を促したいと思います。プラトンやハイデガーのように世俗から離れて傲然と「真理」を追究する哲学者に批判的だったアレントは、一なる「真理」を多なる声(「意見」)を抑圧する圧政のようなものと考え、群衆に塗れず思索に耽る哲学者を「真理を語る者truthteller」と揶揄し、それを受けて哲学を「真理を語ることを職業とするものに顕著な暴君的傾向」(『過去と未来の間』三二五頁)とまで言っています。それ故に、彼女が哲学的遺産から多くを得たことは疑いようがないものの、自らをあくまでも複数者の間に存在する政治思想家と見なし、自らの思想すら自らの思想に適用して、それを「真理(アレーテイア)」ではなく「意見(ドクサ)」に過ぎないとしました。教科書的な指摘になりますが、気になったのでここにコメントを残しておきます。

mkt99さんのコメント
2017/11/18

ごじさん、こんにちわ。
コメントいただきありがとうございます!(^o^)/

丁寧にご教示いただき誠にありがとうございます。m(_ _)m

意外かもしれませんが、実は私もアーレントが「真理を追求する哲学者」であるとは思っておらず、仰る通り「政治思想家」あるいは「政治哲学者」であると思っていましたが、これを書いた時のことをつらつらと思い返してみますと、やはり一般的な意味でその立場上「真実は探求」していると考え、軽はずみにもこのような言葉を選んでしまっていました。

ご指摘いただいた上、懇切に説明いただき感謝いたします。

今後ともよろしくお願いいたします。(^o^)/

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