おせっかい教育論

  • 140B (2010年9月28日発売)
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(以下引用)
内田:学校教育が今歪んでしまったのは、教育活動を行うのは共同体の利益のためでなく、教育を受ける個人がそこから受益するためのものだという勘違いが広まったからだと思います、個人が学校に通って、しかじかの知識を得たり、技術を身につけたり、資格を取ったりして、それで高い年収を得たり、社会的地位や権威を獲得したり、そういう事故利益を達成するために人は教育を受けるのだという思想が広まってしまった。(中略)学校教育を授けることによって、最大の利益を受けるのは共同体そのものなんです。共同体を支える公民的な意識を持った人間、公共の福利と私的利益の追求のバランスを考えて、必ずしも私的利益の追求を優先しないようなタイプの大人を、社会のフルメンバーとして作っていくということは、共同体の存続にとって死活的に重要なわけです。(P.27)

内田:「21世紀の懐徳堂プロジェクト」をやるとしたら、どんなことがあっても絶対そこに経済的合理性を入れちゃいけない。教える側の「持ち出し」でやる。やりたいからやるんだよ、と。長い目で見れば、結果的にはわれわれ社会全体が利益を受けるわけだから、「まず先に俺が金を出すよ」と言うべきなんです。ニーズがどうたらとかマーケットがどうたらというようなことばかり言ってたら日本の教育は今こんなふうになっちゃったわけです。やっぱり教育する側の正しい姿勢というのは「時間も金も俺の持ち出しをするから、いいから黙って俺の話を聞け」というものではないかと(笑)。(P.29)

内田:どんな共同体でも、どんなきちんとした集団でも、そこからこぼれ落ちていく人たちが必ず発生する。でもその「落ちこぼれていく子たち」のうちから次代を担う「イノベーター」が生まれてくる。これは必ずそうなんです。どんなによくできた共同体でも、いつかどこかで制度疲労を起こして壊れてゆく。だから、その壊れていきそうなものにいちはやく気づいて、そこを補正して制度を再構築できる人が絶対必要なんです。でも、そういう仕事をする人間は既存の制度の中の「秀才」からは出てこない。絶対出てこない。イノベーターは常に「落ちこぼれ」の中から出現する。ですから、制度の中長期的な安全保障を配慮したら「落ちこぼれたち」を切り捨てなきゃいけない。彼らを支え、彼らが自尊感情を持て、生き延びてゆける場所を提供することが必要なんです。(P.37)

鷲田:内田樹さんがどこかで書いておられたと記憶するが、実在の、あるいは書物のなかとのひととの出会いをきっかけに、それまでより「もっと見晴らしのよい場所」に出るということが「まなび」の意味だと、わたしは思う。

内田:先生という存在にはいろんな意味があって、教育するというのもあるけれど、乗り越える対象でもあるわけじゃないですか。だからある程度乗り越えやすいハードルとして自分を提示していくというのも大事な仕事だと思うんですよ。乗り越えやすいようにはしごを架けておいてあげる、という。(P.143)

内田:「土壌を耕す」というのは実は日本の中学生や高校生相手に「フランス文学は面白いよ。ぜひおやりよ」ということを忍耐強く知らしめるということなんですよ。自分の自己利益を優先させて、その作業を怠っていれば、自分の仕事そのものがなくなる。(P.170)

鷲田:教育とか学術とか芸術とか、そんなクリエイティブな仕事には、達成度評価というのはなじみません。だって達成度は計画に対して測られるもの。けれども創造的な仕事とは、想像だにしていなかったものが生まれることだからです。(P.186)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ◇本:エッセイ・評論
感想投稿日 : 2012年4月16日
読了日 : 2012年4月16日
本棚登録日 : 2012年4月14日

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