どうか、これから先を生きる未来の日本人が、苦しく、自国を受け入れられず、更なる未来を思い描けず、辛い思いをしながら、生きることのないように、
私たちはもっと、先のことを考えて、(それは未来の「自分」ではなく、もっと大きな流れのこと)生きねばならぬのです、
と、言われた気がした。
最近ネットのニュースで、「世界の全寮制の学校の学費ランキング」というものがやっていた。高い順にランク付けがされているのだが、そこの出身者も載っていて、
「あぁ、なんだ。お金持ちのコミュニティは、こういうところで作られて、こんな風に壁が作られていくのだ。」ということをまざまざと思い知った気がした。
何を今更、というような感想かもしれないが、
「意外にこの人も」という人がすごくお金持ちの全寮制出身だったりして、世の中のコネの強さを思い知ったというか、今表舞台に立っている人は、その人の実力のみで立っているわけではないんだ、という現実を突きつけられた気がした。
それと同時に、「日本にはこういうシステム、ないな。」と思った。いや、もちろん似たものはあるよ。お金持ちやコネがものをいう学校は。ただ、規模が違うというか、世界に比較したら猿真似に過ぎないというか、日本人で本当に今あるコネなり財力活かしたかったら、外国の全寮制行くよね、みたいな。たとえそこで行けたとしても、「代々お金持ち」とかじゃない、成金扱いというか、新参者感否めないよね、みたいな。
まぁ勝手にそんなことを思ったわけですが、
それと同時に、「なんだ、世界って思ったほど変わってないんだ。リベラルを、私は語るべきじゃないんだ。」と、脳天勝ち割られたような衝撃を受けた気がする。
いや、分かるのよ、気づくの遅すぎるって。
「私が、文化的なことに理解を務めようとしても、それは結局猿真似に過ぎない。」
「猿が人間の真似しようとしてるに過ぎない。」
「お前は地球が裏返っても、『リアル』にはなれない。」
じゃあ、どう生きるのか。
やはり、手の届く範囲のものを、手に届く範囲で、慈しむことしかできないのだろう。
自分から、価値の転換を求めて、あれやこれや画策し、行動するのは、どうも身の丈に合わない。
私は、この本でいう「強い現実」に、自分の足場を固めていたい。
でもそれと同時に、自由でありたい。
わたしはそのわがままな意思を貫こうと、今までもがき苦しんできました。いや、今でももがいています。
どうやら、強い現実に身を置いていたければ、「自由」であることは諦めなさいよ。
そう言われているみたいで。
できそうな気がするんですが、集団の価値はそれを認めないというか。「俺が、私が諦めたもん、あんたは両方手に入れようったって、そうはさせない。」という圧力に引っ張られるようです。
だから、しばし日本を離れる選択をしたのですが。
やはりわたしはわがままなのかもしれませんね。
ここまで自由を求める人間んであるとなると、
わたしは余程、(日本にとって)変な人間であるはずです。でもそれが悪いだなんて、つゆほども思いません。
自由であることって、なんなのでしょうね。
責任を負わないことでしょうか。
それだけでは、ない気がします。
自分が大切にしている価値を、守れる、ということではないかと思います。
でも、その価値が、「自分」であればあるほど、「集団の価値」から離れれば離れるほど、「我が強い」「面倒くさい」人間となり、孤立する。
「それ、当然でしょ?」?
本当に?
随分と、わたしは西洋化された思想の持主らしいが、(本人はそう思ってませんが)
この時代において、日本人もまた、全然考え方が西洋化してないんですよね。きっと。
どちらでもいいんです。そんなこと。
自分と、自分の周りを、慈しむことができるように、
自分じゃなくて、もっと大きな流れを見据えて生きることができるように、生きていきます。
私は、自分が嫌だと思うことを、しないで生きます。
それと同時に、人のために、生きていきます。
矛盾してますか。できると思うのです。
でもそれが、とても難しい気がするのです。
- 感想投稿日 : 2016年2月1日
- 読了日 : 2016年2月1日
- 本棚登録日 : 2016年2月1日
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