彼は私みたいな奴に対して攻撃しているんだな。と思いながら読んでいた。私が善い事だと思うのは、やはり宗教や儒教、親や学校や社会が「善い」と判断されていることから殆ど外れない。
そしてツァラトゥストラに全て否定されてしまう。
自分を扱き下ろすわけではないが私は「市場の蠅」であり「賤民」だ。「おしまいの人間」でいいし、あらかじめ定められた正義の上に座っていれば、差し障りないと思っている。しかし、それだけでは安泰には暮らせない。「善い行い」「善い行動」と言うのはバラバラに例えば国レベル、一般社会レベル、会社方針レベル、友達レベル、家族レベルなど数えきれない「善」がありそれに翻弄される。オロオロし右往左往する。そして私はそういって「弱者」になるのである。私は「守られるべきだ」と言い、「平等であるべきだ」と復讐の炎が絶える事はない。
ツァラトゥストラは「救済」のところで過去への復讐を断ち切る方法を示した。悪いが私にはそれが飲み込めない。
「私がそれを欲した」と強引に飲み込むのは過去ではなく、現在でありたい「私がそれを欲する」と。
読書状況:積読
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カテゴリ:
哲学・思想
- 感想投稿日 : 2012年7月18日
- 本棚登録日 : 2012年7月5日
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