津軽: 失われゆく風景を探して (新潮文庫 ふ 26-1)

  • 新潮社 (1995年10月1日発売)
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感想 : 3
5

英国出身の著者が、太宰治の「津軽」の足跡を一人で歩いてたどるというのがこの本の内容。となると、ふと疑問がわく。著者は太宰の「津軽」のどこに魅せられたのか。

気がついたのは、著者が太宰の「津軽」からシンパシーを感じていたのならば、“孤絶感”に対してではないか、と思える点。
アランが歩き疲れた末に入る宿屋でまず出くわすのは、彼と決して目が合わないよう下を見続けるフロントの人。たまに食堂とかで彼に話しかけてくる地元民も、英国人の彼へアメリカの話題という勘違い。彼は津軽人にとって“部外者”なのか?

だがアランは津軽三味線を愛し高橋竹山に会ったこともある。カラオケは北島三郎が十八番だ。彼のハートは日本人と異なるところがない。なのに見た目だけで排除するのか。それが“日本文化”か?アランも津軽で受けたのがそんな振る舞いばかりなら、この本は比較文化論、つまり“ガイジンが見た津軽”となっていたかもしれない。

弘前の偶然入った飲み屋で出会った、米屋のマツオカさん(松岡さん)のエピソードでは、アランの文章が冴える。
松岡さんはアランに、誰もが必ず外国人に対してしようとする「どこから来たのか」などのお定まりの質問は一切抜きで話しかけてきた。そして2人は地元の話題で盛り上がり、アランは穴場の温泉を教えてもらう。アランはその温泉に行くが、地元民に会って弘前の松岡さんの話をしたら、その人は別の人に目配せし、頬に指ですうっと線を引いた。だが翌朝、弘前から車を飛ばし、先に湯船で徳利を置いてアランを待っていたのは、その松岡さん。松岡さんにとって、アランを一人ポツンと送り出すことなど考えられなかった。

アランは思ったに違いない。松岡さんは自分を外国人やよそ者としてでなく「津軽を愛する人」として迎えてくれたんだと。アランがいくら太宰や津軽に造詣が深くても、日本語ペラペラでも、やはり彼は津軽人ではないし日本人でもない。それは揺るぎようがない。でも、旅をしながら、津軽の空気を吸うことで、津軽人と同じハートを持とうとしているのが読んでいてわかる。
一方、太宰も諸々の事情で孤絶感とともに故郷を離れたが、津軽の旅から得た様々な思いが「津軽」に結実した。

太宰が持っていた孤絶感と津軽愛とを、アランも同じように持っていた。だからアランは太宰の津軽を持ち歩く必要があったし、この本には太宰の津軽と同じだけの文学性が詰まっている。
(2011/8/19)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2015年11月8日
読了日 : 2011年8月19日
本棚登録日 : 2015年11月8日

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