たしかに作者はかなりの猫好きのようだ。
冒頭、海沿いの町に着いた主人公は、2匹の猫が自分の前を歩いていくのを見て、まるで歓迎のために先導されているような感覚になる。「おとぎ話の一場面みたいで、私は猫の国に足を踏み入れたような気分になった・・」
次々と猫に広がる感染症と、パニックになる人間。なるほど多くの読者はこの作品を近未来的なSF小説と読むかもしれない。でも、他人と同じ読み方が嫌いな“ひねくれ読者”の私はそう単純には読まない。
「ここは静か過ぎだよ…まるで空気の替わりに、透き通った液体があるみたいじゃないか。」
この作品が書かれた1970年代は、共産主義の理想をひた走り経済的にも成長するソビエト連邦がその体制の維持のため“見えない何か”で社会を封じていたのは今では周知の事実。都会の洗練された知識人である主人公が、気候がよくて自然豊かなこの町に来て次第に幻想に追い回され悪夢にうなされる場面は、当時のソ連知識人が、社会主義国家を覆っていった“黒雲”に苦悩する姿そのもの。
また作者がかつて実際に黒海沿岸の町を訪れたとき「まるで人間と猫の間に契約があって、夜は猫が支配し、日中は人が支配している町みたい」と感じ、猫社会と人間社会が1つの町を共有する、という着想に至ったというが、“猫と人間の共存”といった寓話的に読むだけでなく、民族や宗教の並存の暗喩とも読むべきだろう。
平和な日本では簡単に想像できないが、ウイルスに感染した猫が人間に狩られ姿を消すというのは、民族や宗教の対立により、今も世界のどこかで“浄化”という言葉で行われている愚かな行為のメタファーなのではと思う。
ソ連の作家は、社会の抑圧から自己表現を勝ち取るため裏側の意味を隠し、読者はそれらを謎解きのように探し当てるところに面白さがあると思うが、訳者は「猫好き」だからこの本を訳し始めたというように、翻訳は最近の日本の女性向け小説のような軽いタッチになっている。
それは幅広い読者層の獲得の一方で、本来のロシア小説の味わいを損なっているようにも思える。ボルシチはボルシチのままでおいしいのであって、和風に味付けされれば、もうボルシチではない。
(2010/3/30)
- 感想投稿日 : 2015年11月8日
- 読了日 : 2010年3月30日
- 本棚登録日 : 2015年11月8日
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