フィクションの美学

著者 :
  • 勁草書房 (1993年3月1日発売)
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感想 : 3
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文学や演劇などのフィクションを理解してそれを享受するとは、いったいどのような営為なのかを考察している。フィクションの存在論的分析では三浦俊彦『虚構世界の存在論』(勁草書房)という名著があるが、本書の主題はこれとは異なっている。あくまで個人的な理解にすぎないのだが、フィクションを享受する際に私たちがとっている態度を、D・デネットの「志向的スタンス」に並ぶ独自のスタンスとして認めようとする試みにも読めた。

ストローソンやサールは、世界について真正な主張をおこなう文に寄生するものとして虚構文を理解している。だが著者は、真正な主張をおこなう文と寄生的な文との違いが何なのかが明確になっていないと批判し、じっさいに殴ることと殴るふりをすることとは、まったく異なった意味と実質を担う振舞いだという。同様に、「フィクションを語る」というのは何ら寄生的なものではなく、「現実世界を指示する主張をおこなう」行為とはべつの、独自の行為と考えなければならない。

そうした虚構文からなるフィクションを理解するためには、現実世界を指示する主張を理解することができなければならないだろう。だがそれは、虚構テクストが、読者が持っている信念や知識、慣習についての一定の想定のもとで書かれたものだということによるのであり、それらは虚構テクストを理解するための一つの条件にすぎない。私たちは「虚構テクストを読む」という行為の中で、現実世界についての主張として理解しつつその主張するという行為だけを宙吊りにするようなことをおこなっているわけではない。

その上で著者は、虚構テクストの読者であるということは、けっして作者との対話をおこなうことを意味していないと論じている。イーザーのいう「内包された読者」とは、虚構テクストに設定されている観客席なのであって、読者である私たちは、テクストの指定する読者の視点に美的なスタンスで立つことで、その作品の美的品質を享受するのである。

著者はこうした立場から、悲劇やグロテスクの美的体験がもたらすパラドクスを解こうと試みている。私たちは、作品に描き出されている場面に苦しみや悲しみや醜さを認めるが、それは私たちの感情ではなく、その作品の美的品質の評価語なのである。さらに著者は、こうした美的スタンスの例として、悲劇やグロテスクの美だけでなく、「むかし」を懐かしむ態度や崇高の美的体験についても興味深い議論を展開している。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 美学・芸術学
感想投稿日 : 2011年4月28日
読了日 : -
本棚登録日 : 2010年12月28日

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