身体のいいなり

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  • 朝日新聞出版 (2010年12月17日発売)
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見極めるということがつくづく好きな人なんだな、と思う。それでいて見つめることのできないものもあることを(それを精神的な弱さであると認識しつつ)ちゃんと認めることもできる人である。そこまでとことん極められる(例えば屠畜の現場)のであれば、そんなこと(自分の傷口)位何でもないんじゃないか、と思いがちなことから、目をそらしてしまうのだと正直に告白する。その告白によって、感受性の小さなひだが鞣されてしまわずにいるとも言える。怖いものは怖いのだ、と。そこにホレる。

頭では分かっているつもりでも、脳もやはり身体の一部であることは否定しようもなく、気付くと理性的に考えているつもりでも身体が訴える感覚に捉えられてしまっていることはよくある。例えば「女性」と一括りにしてはいけない、と解ってはいても、こういう本を読んでいると、女性とは、とつい考えている自分を見つける。それは同じ人としてではなく、むしろ理解不能な生き物として突き放して観ようとする視点だ。いやいやそんな風に捉えてはだめなんだと倫理としては解っているけれど、身体の一部である脳は身体のセンサーが流してくる信号に正直に反応してしまう。その乖離。

内澤旬子の捉える世界はどこまで行っても女性の側から見た世界だ。ニュートラルな知識を代表する言葉を介在させつつ、その語りたいところに男性が知り得る観念はないような気がする。内澤旬子と自分をつなぐ唯一のものは、頭と身体の乖離、という考え方だ。病気を通して身体が訴えてくるものと頭が理解しよう(したい)とするものが一致しないことの苦労をこれでもかと書き連ねる。矛盾の芽があちらこちらで花を咲かせようとする。

しかしその言葉に自分の身体が拒絶反応を起こさないのは、そして矛盾の花が仰々しく咲き誇らないのは、頭と身体の関係についてどちらの側の声にもじっくりと耳を傾けている内澤旬子の姿があるからだ。例えばそれを解り易く置き換えてみると、今熱っぽい身体は自分に早く横になってぐったりしていろと訴えてくるが、頭の方は何で身体はそういうのだろうと考えている。風邪か、昨日食べたものが悪かったか。そこを見極めようと頭は熱っぽい身体に鞭を振るう。その両方の訴えを内澤旬子は掬い上げる。

しかしこの本のタイトルにもある通り、最後は身体のいいなりなのである。だれしも身体がもう動きませんと訴えてきたらどうすることもできない。意志は身体の言い分の正しさをきちんと検証することなどできないのだ。騙されているかも知れないとしても、最後は身体の横暴に従うしかないのである。

さあ、もうここらにして横になろう。身体に全てを委ねよう。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2011年8月14日
読了日 : -
本棚登録日 : 2011年8月14日

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