内澤旬子の 島へんろの記

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  • 光文社 (2020年11月18日発売)
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『そして私はといえば。恥を語るのは気が引けるのだが、ここを語らないと前に進めないのでしばらくご辛抱いただきたい』―『1 悟りの世界よ、こんにちは』

例えば、星野博美の「島へ免許を取りに行く」と似ていると言えばよいだろうか。それとも故ナンシー関の文章の毒と似たようなものを感じる(但しそれを全て否定しながら表現している)と言ったらいいのだろうか。

内澤旬子と言えば「世界屠畜紀行」だろうと思うけれど、出版物としては「センセイの書斎」の方が先で、両方とも松田哲夫が「王様のブランチ」で紹介していたような記憶がある。どちらも「来た!見た!(勝った!)」精神とでも言い表したらよいような立ち位置で、見たことを簡潔に伝えようとする本。ルポルタージュと呼ぶべきものかも(ご本人がルポライターと自身を認識しているようなので)知れないけれど、その言葉には「報道」というニュアンスが沁みついているように感じる一方、内澤旬子の文章はそんな風に大上段に構えたところは微塵もない。

と言いつつ、その二冊は本屋で立ち読みした程度のままなのは、そこにある何かを上手く面白いと感じることが出来なかったのと、そこに直接は書かれてはいない何か薄暗いものを感じたから。乳癌を患った後に書かれた「身体のいいなり」は内田樹の身体論や養老孟司の説く唯脳論とも近い感じがしてすんなりと読めたのだけれど。今回「内澤旬子の島へんろの記」を読んでみて、何となくその時手を伸ばしかねた理由が判明したような気分となる。

「ストーカーとの七〇〇日戦争」に限らず、内澤旬子は私生活を題材に文章を書いている印象が強い。プライバシーを切り売りしている戦略を取っているつもりではないだろうけれど、そこに引き込まれていく人も少なからずいるだろう。けれど、と立ち止まって考えてしまうのは、例えばナンシー関が世間にアピールするつもりもなく耳目を集めてしまったのは彼女独自の視線であり思考であったのだから(それに付して、もちろん消しゴム版画という独自のジャンルを切り開いたことは大いに注目を集めるところだったにせよ)、これもまた自分自身を切り売りしているという点では変わらない訳で、ひょっとしたら内澤旬子の「ノリ」もプライバシーの開示ではなくて自身の思考の開示という伏された動機に基づくものなんじゃないのかな、ということ。ナンシー関の「毒舌」というやつは、近頃流行る人を傷付けないよう力を加減して(その為切れ味が悪く余計に痛い)他人の共感を得る(=ウケル)為の(テレビ画面の中の)ポジションを確保するための「毒舌」とは違って、言った自分の立場とか何やかやを(意識せずに)賭してしまっているようなところがあった。内澤旬子もまたそういう人なんじゃないかと思ったりする。

それがとても分かりにくいのは、この本で吐露されているように、強烈な自己否定を第二の自分が全面肯定しているという構図で書き表すからだ。自身の負を開き直って肯定する(それによって負の意識は解放される)のではなく、自身の負を否定しつつ拘泥する(古い少女漫画に出てきそうな「なんて可哀そうな私!」的自己憐憫を思わせる)のがこの著者の特徴であるように思えるのだ。その薄暗い自室に籠っている主人公から発する気のようなものが、この本にも間違いなくある。

しかし、二年弱に亘る一人歩き遍路を通して小豆島からのルポルタージュを続ける報告者はじわじわと変化していく。その結果は著者が書き記すように決して解脱とか悟りというような大袈裟な境地ではない。喉につかえていた小さな魚の骨が気付かぬうちに取れていたという位のこと。あるいはそれは時間の経過による作用かも知れないが、細切れとは言え遍路道を歩き続けたことによる身体浄化作用かも知れない。そう思うと、著者の辿る道行(みちゆき)を然したる強い思い入れのないような筆致で綴ったこの文章を辿ることは、文章の意味を問うのではなく「辿ること」そのことに意味を見い出すべきことであるのかも知れない、などと少し大袈裟に考えて見たくもなる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2021年1月14日
読了日 : -
本棚登録日 : 2021年1月14日

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