龍樹 (講談社学術文庫)

著者 :
  • 講談社 (2002年6月10日発売)
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感想 : 30

 本書の中心はたった76ページにすぎない『中論』である。他の著作も抄訳が32ページ載っているが、大した議論はなく、その他は全て著者による解説である。
 しかし、この解説がなければ龍樹の思想は全くと言って良いほど理解不能である。第1章の「原因の考察について」はまだ理解可能であるが(とはいえ、これ自体もかなり奇異な議論ではあるが)、第2章の運動(去ることと来ること)の考察は素直に読めば全くの言葉遊びであるとしか思えない。冒頭の「すでに去った者(已去)は、去らない」という文章を分析すると、「去った」という既に行われた行為、「もの」と言う行為主体、「去らない」というこれから行われる行為とで成り立ち、「去った」は主語「もの」を修飾し、「去らない」は主語に対する述語であると考えるのが通常である。しかし、この文はこれ自体真の命題とされるのである。ここで読者は、インドと西洋では論理に致命的な差異があるのではないか、あるいは修飾に関して独特な規則があるのではないかという疑問が浮かぶ。
 著者によると、この奇妙な議論は、龍樹の批判対象に起因している。『中論』が批判対象とする有部は「判断内容すなわち命題がそれ自身実在することを主張した」(94ページ)のであり、「『去る』という『ありかた』と『去る主体』という『ありかた』とを区別して考え、それぞれ実体視せねばならない」(135ページ)と主張していた。すると、「去る」と言う概念が主体なしに実在するか、「去る主体」が「去る」というトートロジーが実在するか、「去る」が存在しないので「去る主体」も存在しないかのいずれかとなり、結局のところ破綻してしまう。
 この特異な主張に関して、形式論理的な関心は別にして、現実の「去る」と言う行為に関して適用することを本気で考える人間は今日一人もいないであろうから、これは無意味な議論である。しかし、『中論』はその大部分おいて、この議論を手を替え品を替え具体的な事例に基づいて何度も何度も繰り返すのである。高度な論理を駆使した議論が展開されるのと対照的に、主体、行為、現象と言った概念による一般化が行われず、同じ議論を繰り返さなければならないことは我々からすると非常に奇妙であるが、これもまた当時のインドにおける認識の特徴なのであろう。とはいえ、『中論』の大部分については有部という特異な立場に立たない限り無意味であり、これは中国においても、日本においても同様であったはずである。では何が議論になったのかといえば、「無自性」、「縁起」、「空」が何を意味するのかということであった。しかし著者によると、ここでもクマーラジーヴァによる翻訳が正しくなされなかったために、龍樹の用語としての「縁起(=相互依存関係)」といわゆる「縁起(=因果関係)」の混乱が起こり、無意味な論争に労力が費やされてきたという。
 著者の主張に基づいて龍樹の議論を整理すると、次の通りである。
 全てのものごとは相互依存関係によって成り立っており、いかなる主体、述語もそれ自体として存在しない。例えば私という存在はさまざまな要素によって成り立っており、私そのものというものは存在しないし、その私を構成する要素もまたさまざまな要素によって成り立っているためその要素そのものは存在しない、つまり無自性である。ところで、そうして成り立っている世界は、それ自体存在するとはいえないが、存在していないともいえない、つまり空である。そして、この相互依存関係から自由な世界、つまり常住で不易な無為法は存在しない。したがって、仏もニルヴァーナも空であり、存在するともしないともいえない。
 このような透徹した理論は確かに清々しいものであり、仏を正しく超越的なものと捉え、非常にしっくりくるものである。しかし、同時にあまりにも救いがない。この超越的なあり方をあえて実践において要請として信じることができるかという問いかけは、キリスト教とも一致するものであり、通俗的な仏教からは計り知れない初期仏教の理論的到達点には驚かされるばかりである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2022年5月15日
読了日 : 2022年5月15日
本棚登録日 : 2022年5月15日

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