澤地久枝は1930年うまれ、4年前に死んだ小田実の2つ上、小沢昭一の1つ下(うちの父より5つ上だ)。幼少期に満州に渡ってそこで敗戦をむかえ、翌年引き揚げてきた。
▼わたしが敗戦前後のことを話題にすると、「またか」という顔に出会う。「生れてません」と初老の人にいわれる。経験した生き残りの数はすくなくなっても、知っておくべきことはある。体験のひきつぎ、追体験などできない、と言った人がある。それはそうだ。しかし、他人の経験を知り、理解し、自分の知らない時代や社会を知るための素材やきっかけにすることは可能であるし、必要なことではないのか。(p.8)
敗戦の年に44歳だった渡辺一夫がフランス語でしたためていた日記(子息が日本語に訳し『敗戦日記』として公刊)に言及して、澤地は、守りぬかれた「希望」のかけらをそこに読む。〈来たれ、平和よ〉という思いを。
逃げるドイツ軍兵士たちは〈ゲシュタポに射殺され、どの死体にも「私は祖国を裏切った」という標識がつけられていた!…〉、この話をすでに戦時中に渡辺が知っていたことへの驚き。
澤地が、自身の「棄民体験」と知人の便りを通じて知ったYさん(澤地の2つ下)の「棄民体験」を書いたところは、朝比奈あすかの大伯母・よしが語った話にも重なる(『光さす故郷へ』)。
▼「棄民」がどんなものか、軍隊はいかにあてにならないか、国はいかに簡単に消えてしまうか、Yさんの敗戦体験には、大人の知り得ない哀れな苦しみが巧まず表現されている。(p.13)
そして、新しい時代へのとまどい、レッドパージ、政治の季節─出版社に勤めながら夜学で大学へ通った澤地のたどった戦後が書かれる。
"Freedom for the thought that we hate"─Judeg Holmes
1960年代、手帖の扉に、澤地は毎年このホウムズ判事の言葉を記したという。自分たちが憎む思想の自由、どんな言論であろうとも、その自由は守られねばならないと、骨身にしみるように思っていた、自戒のために毎年手帖の扉に書きついでいた、という。
自分たちが憎む思想は、排斥し、否定する、そんな雰囲気をこのごろ「どちらの側にも」感じる。澤地が30代のころに毎年書きつけたという言葉とともに、巻頭に置かれたこの言葉をこころに刻みたく思った。
夢みる勇気のない者には、たたかう力はない
(11/19了)
- 感想投稿日 : 2011年12月3日
- 読了日 : 2011年11月19日
- 本棚登録日 : 2011年11月19日
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