『ルポ 若者ホームレス』の、その前を読んでいるようだった。毎年、10万人近い高校生が中退しているという。そして、著者は「高校を中退した若者たちの貧困の実態を伝えること」「日本社会の低層に沈んでいる若者たちの嘆き、うめき、悲しみ、なかなか聞こえてこない助けを求める声を、彼らに代わって社会に伝えること」(p.14)がこの本の役割だという。第一部は高校中退の現実を描き、第二部ではその背景を探っている。
「中退した若者たち」の話は、読んでてきつい。「中退したら仕事がなかった」「親しい友だちがやめると、ポロポロ続けてやめていく」「夢などない」―どれが鶏でどれが卵かわからんくらい、学力の低さ、貧しさ、暴力、生活能力のなさ、大人からの期待のなさ、そういったものが絡まりあって、中退に至っている。そして、高校中退は「人生の分岐点」になってもいる。
▼子どもが教育から排除されれば、その後に続く人生の可能性が奪われる。貧困は子どもたちから、学ぶこと、働くこと、人とつながること、食べるなど日常生活に関することまでも、その意欲を失わせている。彼らから話を聞いていくと、ほとんどの若者たちが、経済的な貧困にとどまらず、関係性の貧困、文化創造の貧困など生きる希望を維持できない「生の貧困」に陥っている。それが親の世代から続いている。(p.185)
中学校からの「成績なし」や、入試の面接に欠席でも、入学できる高校。中退は、こうした"底辺校"に集中している。
私は、同期生のほとんど全員が当然のように大学へ進む高校へ通った。自分たち自身、それぞれに将来への期待や希望があったと思う。近いところでは「こんなことが勉強できる大学へ行きたい」、先のことでは「こんな仕事をしたい」というような。そして、そうした将来は努力すれば手に入るのだという雰囲気は十二分にあったし、親や先生など周りの大人からも、その方向での期待の目があったと思う。
進学について、遠方への仕送りはとてもできないが、国公立なら大学の学費は出してやれると親からは言われた。何もかもが選べたわけではないけれど、私には「選べる」経験があったのだと思う。そのことを、ほとんど当たり前に思っていたのだと、今はわかる。
▼「貧しいということは何もできないことです」「何も選べないんですよ。服も子どもの教育も、何も選べないんですよ。つらいのは子どもたちに何もしてあげられないことです。(p.133)
そう話す久子さんは、夫の暴力やギャンブルから逃れて離婚、高校生2人と小学生1人の3人の男の子を育てるシングルマザー。夫とのトラブルと厳しい生活に精神的に病むようになり、精神科に通院中、生活保護で暮らしているが、生活はぎりぎりで、最大の悩みは子どもたちの教育費。
自分が勤めて稼ぐようになって、あらためて教育費の負担の大きさを感じるようになった。高校の授業料はいったん無償になったものの、義務教育もそれ以降の学校も、教科書などの教材費や行事の参加費、修学旅行の積立金など、お金はあれこれとかかる。大学の授業料は毎年のように上がって、国公立といえども私に子どもがいたらとても払えないような額になっている。
私は、学校を終わるまでの途中で、授業料免除や貸与だけれど奨学金を受けることができて、こういう制度があればお金があまりなくても勉強できると思った。でも、その頼みの綱も、予算は限られていて、当たらないことも多くなっているというし、返済のことを考えると奨学金を借りるのも難しいという。私も学校を終わったとき、数百万の借金ができていた。
教育費の私的負担の理屈は、「教育を受けた恩恵は、その個人が享受するから」という受益者負担なのだろうが、この理屈でつくられた教育の場では、そこにとどまる若者も、そこから排除されていく若者も、「共にこの社会を生きるどうし、この社会は自分たちのもの」という感覚は育てにくいやろうなと思う。
『現代の貧困』では、貧困対策は貧困な人たちの権利を守るだけでなく、社会統合や連帯という面を持っている、と強調していた。それは、貧困と富裕、下流と上流といった社会の分裂を防ぎ、同じ社会に生きる人と人とがつながって「私たちの社会」を築いていく際の、もっとも大切な基礎となるもの。
人間は他者と共同し、共感し、互いに励まし合う資質をもつもの、教育は「将来の社会の担い手」を育てるものだと、著者はいう。『We』173号で、李国本修慈さんは「学校をつくりたい」と話していた。「誰にも等しくある存在価値を認める文化や思想」を軸にすえたその学校構想のことを、この『高校中退』のドキュメントを読みながら思った。
- 感想投稿日 : 2011年9月3日
- 読了日 : 2011年8月27日
- 本棚登録日 : 2011年8月27日
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