金融史がわかれば世界がわかる: 「金融力」とは何か (ちくま新書 516)

著者 :
  • 筑摩書房 (2005年1月1日発売)
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◆著者の造語「金融力」を軸に、これを保持していた英米の近代以降の英米の史的展開を踏まえつつ、デリバティブの拡充、ユーロ・元の台頭に見舞われる今を解説。もっとも金融デリバティブの功罪の甘い見方に疑問符も◆

2005年(サブプライム危機は勿論、リーマンショックよりも前)刊。
著者はチェースマンハッタンのマネージング・ディレクター、中央大学大学院経済学研究科客員教授。

 概括的に言うと、本書は、近代以降、著者の造語たる金融力を保有していたイギリス・アメリカの金融史・経済史を概説しつつ、金融力の源泉ともいうべき、金保有高、貿易収支を中核とする経済力が、いわゆる金兌換停止を来たしたブレトンウッズ体制崩壊の前後でいかに変容し、また体制崩壊後、アメリカの金融力を高めたと著者が目す金融デリバティブの内実と意義に触れ、さらに統一通貨ユーロが力をつけてドルに対抗できる状況にまで進展してきている他、元が国際通貨として勃興しつつある現代を素描する書である。

 とまあ野心的ではあるし、著作が意図していることは判らないわけではない。
 ここで、金融力とは、「金融政策への信頼性、民間金融機関の経営力、市場構造の効率性、金融理論の浸透度、新技術や新商品の開発力、会計・税制などインフラの強さ、金員運用力、金融情報提供や分析力など、総合的に評価した力量」を指すようだ。

 その中で、金本位制における金融力の機軸であった金保有を中核に据えて叙述する英米近代経済・金融史(金融覇権国盛衰史)は、通常とは違った角度、異質な視点から近代史を見せるものであって、まずまずの印象である。

 しかしながら、本来リスクヘッジの手段でしかないはずの、金融デリバティブ。これに関して、投資ないし投資類似の手法に変容していった問題点については、悲しいほどに等閑視している。

 ここで、著者は「金融デリバティブ」の正当化を、事故があるからといって自動車のない社会が望まれるわけではない比喩で提示する。しかし、その比喩の正当性は、自動車に欠陥のない社会の成立、欠陥のない自動車を作り上げる規制やルールの成立が大前提となっている。
 ところで、金融デリバティブの個人利用の場合(殆どは金融機関が強いて・引っ掛けて利用させる)、情報の過剰な非対称性、リスク蓋然性の不覚知に加え、オプション料の正確な分析・批判的分析が不可能であり、かつレバレッジの問題点を考えると、金融デリバティブにおいて、欠陥自動車と同様の趣きはないとは言えまい。
 このあたりの甘々の評価は、東京銀行出身、米投資銀行の録を食む者の宿痾なのだろうか。

 またブレトンウッズ体制後の金融秩序が、金本位からドル・オイル兌換体制へ移行との見方もある中、基軸通貨ドルの信用源泉として何を置いたのかという点では、本書は何も答えないままに、結果として価格変動により齎されるリスクの技術的回避策にすぎないデリバティブを説明するだけに止まっている。
 本書がデリバティブを説明する書であるのなら兎も角、金融論を世界史と絡めようとするのであれば、全く物足りないと言わざるを得ない。

 他方、現代については、金融力が亢進しつつあるEU(これが国際情勢分析としては甘いのだが)の統一通貨ユーロがドルに対抗する力を持ちつつあるとし、他方、元という新奇プレイヤーについても筆が及んでいる。あるいは、金融秩序制御に関する米国連邦制度準備理事会議長の手腕にも検討の先が。
 まあそれはいいのだが、今となってみれば(いや平成バブルを経ている我々においては当時でも)、制御不可能なバブル崩壊論とそのメカニズムを等閑視しすぎていて、甘さが残る。

 ただ、もっとも、ルールチェンジに関する欧米の貪欲さに比し、日本の官民金融担当者の遅い動きと、策定能力の低さに関する慨嘆は、なるほどと思わざるを得ないが…。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ノンフィクション
感想投稿日 : 2018年5月5日
読了日 : 2018年5月5日
本棚登録日 : 2018年5月5日

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