智恵子抄 (新潮文庫)

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高村光太郎の愛の詩集だ。
「いやなんです
あなたのいつてしまふのがー」
そのフレーズは知っていたけれど、「人に」というタイトルすら知らなかった。
また、「人に」というもう一つの詩があることも初めて知った。
「智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。」
こちらも、「あどけない話」というタイトルであることを知らなかった。
私にとって、本当に初めての高村光太郎だ。

『人に』(いやなんです)
光太郎と智恵子が出会った時、智恵子には婚約者が居たのだそう。
だから、
「いやなんです あなたのいつてしまふのが」
なんですね。
知らなかった~。
「花よりさきに実のなるやうな
種子よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理屈に合はない不自然を
どうかしないでゐて下さい」
焦がれる気持ちで溢れている。
すがっていると言ってもいいくらいに。
○○のような…○○のような…と重ねに重ねているからこそ、正直に真っ直ぐ述べる最後の2行が切なく胸を打つ。
「おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて」

でもこれ、ただすがっているだけじゃなさそう。
「そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう」
これって、決められた婚約者の元に嫁ぐなんて、そんないいなりになっていていいのですか?と言っているのかな。
それだけでは言い方が強めだな…と思い少し検索すると、光太郎はフェミニストだったとの記事があった。
女性の権利を認め、男女平等に価値観を求める人であったということ。
そんな光太郎だからこそ、自分の心惹かれる女性が、言いなりになって嫁いでいくことに我慢がならなかったのだろうな。

「ーそれでも恋とはちがひます
サンタマリア
ちがひます ちがひます」
恋を否定すればする程に、どれほど恋い焦がれているのかが伝わってくる。
高村光太郎は1911年(明治44年)12月に智恵子と出会ったとのこと。
「人に」は1912年(明治45年)7月の作品。

光太郎と智恵子は1914年に結婚。
だけど、平穏な生活は長くは続かなかった。
1929年に智恵子の実家が倒産。
この頃から智恵子は体調を崩し始めて、精神を病んでしまう。


『レモン哀歌』
「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
かなしく白くあかるい死の床で」
智恵子の詩の間際を書いた詩。
あかるい死の床、レモンの清々しさ、それらによって二人の愛が神聖なものに昇華されているように思えた。

「その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
私の手を握るあなたの力の健康さよ」
正常に戻れば、智恵子は確かに自分を愛しており、握り返してくる手の力も健康的であるというのに、その一瞬に全ての愛をかたむけ、彼女は逝ってしまう。
光太郎にとってどんなに大きな悲しみであっただろう。
同時に、これまで智恵子につくしてきたことが報われもしたのではないだろうか。

「写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置こう」
「今日も」とあるように光太郎はこれまでも、そしてこれからもレモンを供え智恵子を想ってゆくのだろうな。
それでも、「今日も置く」ではなく「今日も置こう」としたことで、そこに動きが生まれているような気がする。
そうやってレモンを供えることが、日常生活の一部であるように。

智恵子が亡くなったのは1938年(昭和13年)10月で、肺結核だったのだそう。
この詩は1939年2月の作品。


『智恵子の半生』
これは高村光太郎が残した随筆だ。
彼女の存在が光太郎の大半を占め、彼女の死が光太郎にどれほど大きな衝撃を与えたかがよく分かる。
「自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力となるものはない。」
「製作するものの心はその一人の人に見てもらいたいだけで既に一ぱいなのが常である。私はそういう人を妻の智恵子に持っていた。」

智恵子を亡くし空虚な日々を過ごす光太郎だったが、
「或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失う事によって却て私にとっては普遍的存在となったのである事を痛感し………」
とある。
心の支え、想像力の源だった彼女が、本当の神の領域としてのミューズに昇華された瞬間だろうか。

この『智恵子の半生』の中で光太郎は、実に冷静に客観的に、智恵子と自身について語っている。
『智恵子抄』を読む前に、こちらに目を通したほうが良かったかもしれない。
智恵子も洋画家であり芸術家だった。
そんな彼女にとって「肉体的に既に東京が不適当の地」であり、「田舎の空気を吸って来なければ身体が保たないのであった」と光太郎は語っている。

「私は時々何だか彼女は仮にこの世に存在している魂のように思える事があったのを記憶する。彼女には世間慾というものが無かった。彼女は唯ひたむきに芸術と私とへの愛によって生きていた。」

智恵子の命日10月5日は『レモン哀歌』にちなんでレモン忌と呼ばれる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2024年2月23日
読了日 : 2024年2月23日
本棚登録日 : 2024年2月23日

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