「宗教改革は人間生活に対する教会の支配を排除したのではなく、従来とは別の形態による支配に変えた」というのがMウェバーの信仰と社会層分化における考えである。
従来とは別の支配とは、本書で論じられるプロテスタンティズムに他ならず、特にカルヴァン派を中心とした改革派を指す。
改革派の資本主義の精神は、純粋に「適応の産物」として論じられる。
貨幣獲得が「天職」として経済的合理性を与えられた世界観における当然の帰結と結論づけられるのである。
カルヴィニズムで有名なのは「予定説」である。以下に一部を抜粋する。
「神の至高の導きを推し量ろうとしても無意味であるとともに、神の至上性を侵す事になる」
「人間の功績あるいは罪過がこの運命の決定にあずかると考えるのは、永遠の昔から定まっている神の絶対に自由な意志を人間の干渉によって動かしうるとみなすことになり、あり得べからざる思想なのだ」
この考えの延長上にキリストについての解釈が存在する。
「キリストが死に給うたのもただ選ばれた者だけのためであり、彼のために神は永遠の昔からキリストの贖罪の死を定めていた」
この「予定説」であるが、カルヴァン派の信徒たちは自分たちが選ばれている人間かそうでないか、常に不安な状態に陥る。そのため信徒は救いの確信を自らがつくりだすという技術的手段によって救いについての不安を取り除くといった行動に出るのである。
救いに対する疑念は悪魔の誘惑とされるため、一心不乱に労働に勤しむのであった。
その場合、職業には道徳的基準・生産する財・収益性が重要であった。
ちなみに、この考え方は当時から批判が多かったらしい。イギリスのジョン・ミルトンは「たとえ地獄に堕されようと、私はこのような神をどうしても尊敬することはできない」と言い放ったという。
キリスト教敬虔派が来世の確信を得るための禁欲的な戦いを続けるのとは違い、カルヴァン派は現世にあるままで救いの悦びを味わおうとする方向に傾く。
そしてこの感情の高揚が激しい場合、信仰は端的にヒステリー的性格をおびるようになる。感覚的な宗教的恍惚状態と「神を離れた状態」として感じられる精神的虚脱状態との交替によっておよそ冷静なピューリタンとは思えない正反対の結果を呼び起こすという。
この宗教的神秘体験は、「懺悔の苦闘の後に到達する突然の回心」と定義づけられ、神の恩寵獲得のための合理的企図の対象とされ、後には恩恵貴族主義につながる。
Mウェバーは、これら一連のカルヴィニズムの流れについて、以下のように結論づけた。
「世界を呪術から開放するという宗教史上のあの偉大な過程、すなわち古代ユダヤの預言者とともにはじまり、ギリシャの科学的思考と結合しつつ、救いのためにあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥したあの呪術からの開放の過程は、ここに完結をみたのだった」
最後にルターの「天職」及び「予定説」に至ったプロセスは以下の考え方によるという。
「ルターは歴史的な客観的秩序は神の意思の発現だと考え、後には人間生活の個々の過程のうちにも神の摂理を強調するようになった。
神の摂理は、聖慮(みこころ)という思想に照応し、各人の具体的な職業は神の導きによって与えられたものであるという考えに至る。
ルターは宗教的原理と職業労働との結合により、新たな原理基礎をうちたてたのである」
- 感想投稿日 : 2012年11月4日
- 読了日 : 2012年11月4日
- 本棚登録日 : 2012年11月4日
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