東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

著者 :
  • 講談社 (2007年12月18日発売)
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羽田正『東インド会社とアジアの海』講談社、2007年:イエズス会士のことを調べているが、カトリック系の本はどうも抹香臭くていかんと思い、ビジネス面も勉強してみることにして手に取った。最初はポルトガル人の活躍である。ヴァスコ・ダ・ガマは「キリスト教徒と香辛料」をもとめて、インドへ航海した。当時のポルトガルはレコンキスタの後で、イスラム教徒に被害妄想をもち、キリスト教徒だと知られたら殺されるんじゃないかと怯えていた。アフリカのモザンビークに寄ったとき、アラビア語を話す人たちがいると知ると、いきなり砲撃して水を奪い、案内人を連れだし、モンスーンをつかまえ、1498年5月20日にインドのカリカットに到着する。ガマは王に謁見し、ポルトガルの豊かさを力説したが、贈り物が貧相で王の側近らに失笑された。大航海時代、インドの綿織物・東南アジアの香辛料・中国の茶などヨーロッパ人が欲しがる品は多いが、ほかの地域が欲しがる産物がなかったのはヨーロッパだけである。ガマは香辛料を手に入れ、陰謀がめぐらされていると勘違いし、港の税を踏み倒して出航した。帰路、壊血病が発生し、船を一隻失いながらたどり着く。帰国後は大騒ぎ、東方貿易を握っていたヴェネチア人は「漁師をやらねばならない」と言われたが、そんなことにはならなかった。1500年にはカブラルが出発、途中ブラジルを発見するというめちゃくちゃな迷いかたをし、なんとかカリカットに到着したが、現地で紛争を起こし、帰国時には物産が足りず赤字がでて、航海は失敗といわれた。ガマは1502年に二度目の航海をする。はじめて立ち寄ったキルワの沖合で大砲を発砲、王をよびつけ「和平」を結ばせた。途中、船を略奪しながら航海をつづけ、カリカットでは前回バカにされたのが頭にきたのか、ムスリムの追放を主張、ムスリムを34人処刑しマストに吊るし、カブラルがうけた被害を賠償せよと、沖合から発砲、2日で400発も砲弾を撃ち込み、カリカットを破壊した。自らの武力が有効だと知ったポルトガル人は、1515年までに各地を攻略、「ポルトガルの鎖」をつくり、航路封鎖で香辛料の独占をねらった。アルプケルケによるインド・ゴアの征服(1510年)もこのころで、1515年以後はゴアに「副王」が駐在した。しかし、航路封鎖を破る方法がいろいろ案出され、結局、ヴェネチアに香辛料が流れ、独占はならなかった。ポルトガルはあちこちに築いた砦を維持するために移民をおこない。派遣された男が現地の女性と結婚し、ここに「ユーラシアン」が生まれる。彼らはアジアの海で勝手に交易を始め、私的なポルトガル人になっていく。要するに海賊兼商人である。1511年、アルブケルケがマラッカを陥れ、21年、インド洋と同じく広州で武力による貿易を試みたが、明はそんなに弱体ではなく失敗。42年、種子島漂着、50年、平戸到着、53年、マカオで濡れた荷物を乾かすため上陸し、そのまま居すわった。57年、明が居住を暫定的に認めた。地租は500両であった。イギリスではロンドンの商人たちが出資し、1601年「イギリス東インド会社」が成立した。ロンドンに本社があり、王に頼んで独占の特許をえた。ペルシャのホルムズや東インドのベンガル(マドラス)などに商館をおいた。オランダはイギリスより早く1590年あたりから東インドに進出、1591〜1602年まで46隻が出航している。アムステルダム・デルフトなど各都市の商人が船団を用意した。1602年、共和国が間に入り、各地の会社を合同して「オランダ東インド会社」が成立する。17人委員会による運営であった。資本の規模はイギリスの12倍、会社の消滅までアジアで最強の商社であった。オランダが拠点をおいたのはバタヴィア(ジャワ島)だが、オランダも東南アジアで蛮行をしている。1620年バンダ島で1500人の島民を殺害、23年にはアンボイナ島で虐殺、香辛料クロウヴを独占するため、ほかの島の木を切り倒したりしている。フランスは1664年、コルベールの肝いりで国策会社として「フランス東インド会社」を設立した。一時はイギリス東インド会社にせまったが、政府の肝いりだけに財政危機をまともにかぶり、7年戦争(1756〜)の敗北や銀行の未発達もあり、1769年に活動停止する。イギリス東インド会社はインドの情勢悪化にともない商館防衛の兵士を増強していたが、会社がインドの現地勢力に荷担し、軍事行動を起こし、1757年「プラッシーの戦い」で勝利を収める。この結果、会社は徴税権をもつインド領主となった。これは当時歓迎されたが、結局、会社の能力を超えており、行政コストがかさみ、1770年のベンガル大飢饉、ボストン茶会事件(1773年)による英国茶のボイコットがあいまって、赤字に転落、1784年の「インド法」により政府管理となる。1813年インドとの独占貿易を終え、33年中国との独占貿易を終了した。以後、植民地統治機構として残ったが、1858年の解散にいたる。オランダ東インド会社は、第四次英蘭戦争(1780)の敗北、社員の汚職、会計制度の欠陥、17人委員会とバタヴィア評議会の不和などがあいまって、1799年解散である。胡椒・香辛料・インド綿・生糸・茶・陶磁器・銀など、東インド会社が扱った物産は欧州やアジアで人々の生活や土地利用をかえた。ヨーロッパは1670年までは日本銀をつかい、それ以後は南北アメリカの銀をつかい、物産を交易して利益をあげた。この意味で近代ヨーロッパは内在的に発展したものではなく、グローバル経済の落とし子なのである。インド洋は多民族の「交易の海」、東シナ海は朝貢システムによる「政治の海」で、「陸の王国」の態度がちがった。インドや東南アジアの王権は人を支配するが、土地を支配するという発想がなかった。人がいなければ土地は物産を生まないからだ。このような国家観があったから、役に立つ人間ならヨーロッパ人であっても恩恵をあたえた。ここに「国民」や「国籍」といった概念はなかった。しかし、中国や日本はちがった。とくに日本は鎖国政策、新居白石の「正徳新令」(1715)による対外貿易額の制限など、国の内外をわける発想があり、これはヨーロッパに成立した主権国家・国民国家と似ていた。また、江戸時代の日本は貿易に依存しない自給自足社会をつくっていた。東インド会社が衰退したのは国民に平等に権利を保障する「国民国家」の成立と関係がある。国民国家が未成熟な時期には、一部の会社による独占も大事業を興すという点でそれなりに意味があったが、国民国家では許されない。とくに台頭した資本家は自由貿易を求めた。原料が独占されると調達が高額になるからである。また、商社と統治者の立場は異なる。商社は自らの利益を追求すればよいが、統治者は安定を実現し「国民」を豊かにせねばならない。これが東インド会社が植民地経営に失敗した理由であった。紅茶文化はイギリスよりオランダで先に発展しており、香辛料は薬膳としての需要があったことなど、通説を批判しているところもあり、興味深い内容であった。イエール大学は、インドのマドラスで総督をしながら私的貿易で巨富をなしたエリフ・イエールの名からとっている。金にものをいわせ、追及を逃れ、晩年は本国で悠々自適、アメリカ植民地の大学に金をだしてやった。「ジャガタラ・お春」や、コルネリア・ファン・ネイエンローデという蘭日ハーフの女性の人生もくわしい。コルネリアは再婚相手が財産を乗っ取ろうとしたため、オランダ本国で訴訟を起こしてたたかった。「おてんば」は「手に負えない」という意味のオランダ語だそうだが、コルネリアにふさわしいとのこと。東インド会社は16世紀17世紀を通じて200万人の人間をアジアへ送ったが、ヨーロッパに帰ったのは1/3である。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 歴史
感想投稿日 : 2014年4月16日
読了日 : 2014年4月16日
本棚登録日 : 2014年4月16日

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