中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

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  • 医学書院 (2017年3月27日発売)
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自らの意志で行った行為には責任が伴う。意志を持って行った行為とはつまり能動的な行為であり、一方、他から強制されて行った行為は受動的な行為と呼ばれる。受動的な行為においては、その責任は少なくとも部分的には免除される。

私たちの社会におけるこのような認識は、人間には自由意志があり、その意志との関係性で能動的な行為と受動的な行為が区別できるという前提に立っている。

しかし、本当にそうだろうか?という疑問から、この本は始まる。

いかに自由な意思に基づいているように思える行為でも、その意志の背後には様々な外的要因や歴史が影響を及ぼしている。そう考えると、われわれの自由な意志を想定する根拠は、実はそれほど確たるものではない。少なくとも、能動的/受動的という区分により、片方に自由な意志の存在を想定することにはやや無理がある。

実際、哲学史を遡っても、古代ギリシアの時代において論じられていたのは、自由意志の概念ではなく、そこにはプロアイレシス(過去からの様々な影響を踏まえて、理性と欲望が作用しながら行われる「選択」)という概念であった。

そしてその時代には、言語においても「能動態/受動態」という対比があったのではなく、「能動態/中動態」という2つの態が対比構造をなしていた。つまり、「する/される」という比較が問題なのではなかったということである。

ではこの「能動態/中動態」は何を対比しているのか?現代の感覚ではなかなか捉えるのが難しかったのだが、能動態とは「動詞が主語から出発して、主語の外で完遂する過程」を表しているのに対し、中動態とは「主語がその過程の内部にある状態」を指している。

例えば「曲げる」という動作は、主語が明らかにその外にある対象を曲げることによって完遂する、能動的な作用である。

一方、「欲する」や「希望する」は、主体の心の中で生まれる作用であり、その主体自身がその過程の中にある。

「能動態/受動態」の対比においては、主体と客体という2項が常に存在し、「する/される」という関係性の中でその作用の方向性が異なるという区分がなされるが、「能動態/中動態」の対比においては、主体と客体という2項が存在するのは「能動態」の時であり、「中動態」においてはその動詞の作用は主体がどのように変化するのかという観点にとどまっている。

中動態という概念は、筆者も述べているように、現代の感覚からすると衝撃的だ。しかし、主体か客体かという比較論を離れ、外部との作用があるのかないのかという観点から行為や作用を捉えることによって、われわれの自由や責任に対する考え方に新しい視野を拓くことが可能になる。

本書の後半では、スピノザの哲学を中動態の観点から読み解くことで、その可能性を論じている。

スピノザの描く世界は極めて中動態的である。「神」とはあらゆるものの原因であり、またその作用の現れもまた神が現れたものである。つまりは、主体自身がその過程の中にあるという中動態の概念によって構成されている世界である。

一方、この中動態の世界の内部においては、神の現れの一つであるそれぞれの存在=様態が、相互に作用をし、変化をしている。この変化=変状の段階には、外部からの原因が作用するという能動態的な段階と、その作用を受けて、個々の様態が変状するという中動態的な段階の、二つの段階から成り立っている。

そして、この変状のあり方がどこまで自らの本質に従っている変状なのか、逆にどこまでが他者の作用により規定されている変状なのかによって、スピノザは「自由」と「強制」を定義した。

つまり、われわれが自由であるか否かを考えるためには、その作用が外部からもたらされたものか内部から持たされたものかではなく、一連の作用の帰結としての変状が我々の本質をどれだけ十分に表現しているかを考えなければならない。

結局のところ、われわれは自らの本質を見つめ、それを理解しなければ、真に自由になること、自由を感じることはできないということなのだ。

このような中動態の世界に立ってみると、本書の冒頭で取り上げられていた、「意志」や「責任」に関する我々の認識体系は、かえって実態からは遠いものに思われてくる。

自由意志を持った個々の主体の判断の積み重ねで構築される世界ではなく、相互の作用と各々の本質が関連しあう世界の方が、われわれの住む世界の実態をより忠実に表しているように感じられる。

それでは、われわれは、このような世界において、どのようにして相互の関係性を調整しながら、各々の自由を最大限に享受できる社会をつくっていけばよいのだろうか?意志と責任に代わる体系を、どのように作っていけばよいのだろうか?

本書においてその答えは直接的には示されていないが、最終章に取り上げられたメルヴィルの『ビリー・バッド』という小説の読解を通じて、その糸口に関する考察が述べられている。

『ビリー・バッド』に登場する3人の登場人物は、いずれも思うが儘に行為することが出来ない存在として描かれている。しかし、彼らの行動は受動的でありながらも、その行動の中に各々の存在の本質が幾分か現れている。ここに、彼らが能動的な変状を通じて自由になる契機、可能性が残されている。

筆者の与えてくれたこのような糸口を基に考えると、身体(気質)、感情(人生)、歴史(社会)といったわれわれを自由から遠ざける要素と、われわれの本質を峻別し、われわれの本質をより引き出す手立てを考えていくことが、われわれを孤立した自由意志の概念から解き放ち、相互に関係性を持ちながらも自由な在り方を実現できる社会の実現にとって、重要なことであると思われる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2020年5月31日
読了日 : 2020年5月17日
本棚登録日 : 2020年4月23日

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