華岡青洲の妻 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (1970年2月3日発売)
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華岡青洲(はなおか・せいしゅう)を語るには、まず麻酔の歴史を語らねばならない。欧米ではじめて全身麻酔がおこなわれたのは1840年代。アメリカの歯科医モートンがエーテル麻酔による公開手術を成功させ、それまでは泣きさけぶ患者を押さえつけておこなわれていた外科手術に大きな革命をもたらした。以降、麻酔法は欧米を中心に急速な発展を遂げてきた。

しかしそれに先んじること数十年、独自の手法で全身麻酔を成功させていた日本人外科医がいた。それが華岡青洲である。彼は生薬由来の麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」を独力で開発し、全身麻酔下で乳がんの手術を行なった。1804年のことである。あまり知られていない事実だが、記録に残るものとしては、これが世界初の全身麻酔による手術であった。

薬の開発には、人体実験が不可欠である。青洲が通仙散を完成させるにあたって、自ら望んで被験者となった者たちがいた。青洲の母・於継(おつぎ)と妻・加恵である。彼女らの命がけの協力のおかげで、青洲は通仙散を完成することができた。ことに、薬の副作用で失明してまでも青洲に尽くした加恵の献身ぶりは、医者の妻の鑑(かがみ)として後世に語り継がれるほどであった。

…史実はここまでである。しかし有吉佐和子は、この感動的な逸話を、まったく異なる視点から再構築してみせた。なんと、於継と加恵が進んで麻酔の実験台になったのは嫁姑のいがみあいの結果であり、いわば封建的な家制度の犠牲になったというのだ。

青洲をめぐって対立する於継と加恵。水面下で繰り広げられる熾烈なバトルの行きついた先は「青洲のために、どちらがより多くの自己犠牲を払えるか」だ。女の意地の張り合いが麻酔薬の飲み比べに発展してゆくさまは、狂気以外の何ものでもない。その対立を結果的には利用して、青洲は妻に薬を飲ませ、自分の目的を達成する。

女性の奉仕を当たり前のように搾取して成り立つ「男」という存在、「家」という制度。女たちの苦悩も悲哀も結局は、それらに呑みこまれて忘れられてしまう、この不条理。実母と兄嫁のいさかいを間近に見てきた小姑が、死のまぎわに言いのこす言葉が重い。

〈私はそういう世の中に二度と女には生れ変わりとう思いませんのよし。私の一生では嫁に行かなんだのが何に代えがたい仕合せやったのやしてよし。嫁にも姑にもならいですんだのやもの〉

フィクションのはずだが、つくり話と笑いとばすことのできないリアリティがこの作品にはある。この国で女性として生きるということ――。作者の告発は今もなお、私の心をとらえて離さない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 現代日本文学(昭和-)
感想投稿日 : 2018年10月31日
読了日 : -
本棚登録日 : 2008年11月6日

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コメント 1件

ほうじ茶さんのコメント
2011/08/09

紅茶さん、ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。突然のフォローにも関わらず、丁寧なコメントをくださいましてありがとうございます。
そうなんです、名前がお茶つながりなんですよね。ご察しの通り、同業です。そして、実は、ホームタウンも同じなのです!もちろん、野暮なのでこれ以上は詮索しません(笑)
この偶然に気がついたのは少し前のことでした。それこそ偶然に。今回、再び偶然紅茶さんに巡り会ったのをきっかけにフォローさせていただくことになった次第です。

『華岡青洲の妻』のラストの文章がとても印象的でした。むなしいようなやるせないような。歴史の陰にいる多くの人の存在を思い起こさせられました。

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