ミノタウロス (講談社文庫)

著者 :
  • 講談社 (2010年5月14日発売)
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感想 : 58
5

人間の中に潜む怪物が混乱期のロシアの荒れ地を駆け巡る。暴力と狂気は哀しみを孕む。救いのない破滅へと突き進む主人公ヴァシリ・ペトローヴィチの無目的な生の衝動が淡々と描かれる。

二月革命の後、成金農場主の次男であるぼくは盗賊のグラバクの恨みを買って、自分を裏切った実の父親シチェルパートフを射殺し逃亡する。
逃亡生活を始めるとすぐドイツ兵のウルリヒ、馬を操るのが上手いフェディコという仲間を得る。クラフチェンコという頭目に懸かる五百ルーブリの賞金を狙うが、クラフチェンコ一味の列車強盗に遭い、仲間に紛れ込む。しかしそこから機関銃付きの馬車(タチャンカ)を奪い三人は逃亡。殺戮と略奪の日々が始まる。

 ぼくはいつの間にか微笑んでいたらしい。
 妙な奴だな、とウルリヒは言った。何がそんなに嬉しいんだ。こっちの取り分を想像しているのだとぼくは答えたが、そうではなかった。ぼくは美しいものを目にしていたのだーー人間と人間がお互いを獣のように追い回し、躊躇いもなく撃ち殺し、蹴り付けても動かない死体に変えるのは、川から霧が漂い上がるキエフの夕暮れと同じくらい、日が昇っても虫の声が聞こえるだけで全てが死に絶えたように静かなミハイロフカの夜明けと同じくらい美しい。半狂乱の男たちが半狂乱の男たちに襲い掛かり、馬の蹄に掛け、弾が尽きると段平を振り回し、勝ち誇って負傷者の頭をぶち抜きながら略奪に興じるのは、狼の群れが鹿を襲って食い殺すのと同じくらい美しい。殺戮が?それも少しはある。それ以上に美しいのは、単純な力が単純に行使されることであり、それが何の制約もなしに行われることだ。こんなに単純な、こんなに簡単な、こんなに自然なことが、何だって今まで起らずに来たのだろう。誰だって銃さえあれば誰かの頭をぶち抜けるのに、徒党を組めば別の徒党をぶちのめし、血祭りに上げることが出来るのに、これほど自然で単純で簡単なことが、何故起こらずに来たのだろう。(p.182) 

赤軍から複葉機を奪うがクラフチェンコの手下になったグラバクに捕まり、盗賊の仲間入りをする。ある村を襲ったときウルリヒが一人の娘に恋をするが、グラバクの手下が彼女を撃ち殺してしまう。ぼくはグラバクに反旗を翻す。ウルリヒの操る飛行機から馬上のグラバクを射撃して殺す。屋敷に帰るとフェディコは馬車で逃げたあとだった。しかし間もなくクラフチェンコに捕らわれ、ぼくとウルリヒは生き残りを賭けて殺し合わされる。ぼくはウルリヒを刺し殺す。

 人間を人間の格好にさせておくものが何か、ぼくは時々考えることがあった。それがなくなれば定かな形もなくなり、器に流し込まれるままに流し込まれた形になり、更にそこから流れ出して別の形になるのをーーごろつきどもからさえ唾を吐き掛けられ、最低の奴だと罵られてもへらへら笑って後を付いて行き、殺せと言われれば老人でも子供でも殺し、やれと言われれば衆人環視の前でも平気でやり、重宝がられせせら笑われ忌み嫌われる存在になるのを辛うじて食い止めているのは何か。サヴァが死んだ時、ぼくはその一線を跨ぎ越しながら、それでもまだ辛うじて二本の脚で立っていた。屋敷とミハイロフカがーー兄やオトレーシコフ大尉がーー誰よりシチェルパートフが、ぼくを全面的な溶解から救っていたのだ。ぼくはまだ人間であるかのように扱われ、だから人間であるかのように振る舞った。それを一つずつ剥ぎ取られ、最後の一つを自分で引き剥がした後も、ぼくは人間のふりをして立っていた。数え切れないくらいの略奪と数を数えることさえしなくなった人殺しの後も、人を殺して身ぐるみを剥ぎ、機銃と手投弾で襲って報酬を得ることを覚えても、ぼくはまだ人間のような顔をしていることができた。ぼくだけではない。ウルリヒが飛行機を奪うために飛行士を躊躇なく撃ち殺したことを、ぼくは覚えている。フェディコは生き延びるためならぼくたちを売るのを躊躇ったことがない。ぶち壊れた殺人狂と、最低限の信義さえないどん百姓だ。それでも、ぼくたちはまるで人間のような顔をして生きてきた。
 そしてこの通り、ウルリヒは死に、マリーナにせせら笑われて放り出されたぼくは、人間の格好をしていない。(pp.269-270)

クラフチェンコを川岸の倉庫で待ち伏せし、フェディコが隠し持っていた機関銃で狙撃する。岸壁を死体だらけにしたが、クラフチェンコの手下が倉庫に乗り込み、ぼくに二発の銃弾を撃ち込む。ぼくの作った血溜まりを踏みつけた男は、犬の糞でも踏んだように、靴の裏を床に擦り付ける。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2011年10月2日
読了日 : 2011年10月2日
本棚登録日 : 2010年6月5日

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