さよならインターネット - まもなく消えるその「輪郭」について (中公新書ラクレ 560)

著者 :
  • 中央公論新社 (2016年8月8日発売)
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感想 : 50
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ずいぶんとインターネットのお世話になっています。
ネットのない生活なんて、もはや考えられません。
私がよく利用したり見たりしているのは、フェイスブック、ライン、ブログ、本のレビューサイト、ニュースサイト、好きな作家のコラム、ゲームアプリ、ユーチューブ、深夜に見る××といったあたりでしょうか。
ただ、ふと、こんなに長時間、ネットと関わっていていいのかな、と疑問に思うこともあります。
自覚があるだけ、まだマシかも、などと自分を慰撫しています。
それは42歳の自分の人生の前半生がまだ「アナログ社会」だったからかもしれません。
そんなことをつらつら考えていたら、たまたま新聞の書評で本書のことを知りました。
家入さんはネットサービスを利用した実業家で、その道の草分けと言ってもいい方。
2年前の東京都知事選にも出馬しているので、ご存知の方も多いかもしれません。
私なんかとは比べ物にならないほどインターネットの草創期からどっぷりとネットに浸かって来た著者は、ネットがかつてのような自由さや大らかさを失ったと主張します。
その要因は常時接続、無線接続、IoT。
もっとも、今の若い人に常時接続や無線接続といっても、「え? それって当たり前じゃないの?」という答えが返って来るのが関の山かもしれません。
そう、おじさんが学生だった20年前は、電話回線を通じてインターネットにつながっており、ダイヤルアップで自らネットに接続しなければならなかったのだよ。
ピーヒョロロ…なんていってね。
もちろん、パソコンでの話で、当時の学生の間ではPHSさえ持っている人が珍しく(私は持ってました。えっへん)、まして携帯電話なんて高嶺の花、スマホなんて見る影もない時代でした。
著者も本書で懐かしく当時を振り返っています。
「当時ネットを使うときは、有線でつながったパソコンの前に座り、『インターネットをこれから見るぞ』という意識を持ったうえで、接続していました」
本当にそうです。
当時の私にとってインターネットは「非日常」、画面の向こうに私の知らない世界が広がっていると思うとワクワクしたものです。
ちなみに卒業旅行のために貯めていたお金で、マッキントッシュのデスクトップパソコンを買いました。
今振り返れば、卒業旅行に行けば良かったかも。
というのはどーでもいい話です。
翻って今のインターネット環境はどうでしょうか。
著者は常時接続が当たり前になった結果、インターネットの「輪郭」が解けてしまったと指摘します。
つまり、日常と非日常の境目がなくなったというわけですね。
不用意なネット上での発言で炎上するだけならまだしも、ネット上の「警備員」と化したネット民から個人情報が暴露され、実際の生活にまで支障をきたすなんて例も枚挙にいとまがありません。
本書を読んで、私が怖いなと思ったのは、パーソナライズ化という流れです。
SNSやニュースキュレーションアプリなどを使い続けると、パーソナライズされて自分の趣味、嗜好に合った書き込みや情報ばかりが流れるようになるそうです。
つまり、別の見方や批判的な意見があっても、インターネット上では目に入らなくなってしまうのです。
ヘイトな言動が横行するのも、こうした現在のネット環境と無縁でないかもしれません。
著者は、「今のインターネットを俯瞰すれば、誰もが顔なじみの田舎者のような感覚を覚えます」といいます。
かつてのようにインターネットは開かれた世界ではなく、閉じられた世界だというのですね。
「かつて『インターネット的』と定義されたあらゆるものは、もはや『エクスターネット的』と同義だと思うのです」という指摘は、示唆に富んでいます。
著者は、ですから、敢えてインターネットの外に出ようと呼び掛けます。
寺山修二が「書を捨てよ、町へ出よう」と呼び掛けるのと同じ文脈でしょう。
たとえば、ふらっと一人で居酒屋へ行く、電車の中で周りを観察して観察日記を書いてみる、書店へ行く、何より孤独に浸る。
私は週末、天気が良ければキャンプに行く予定です。
スマホを家に置いて出掛けたいと思います。

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感想投稿日 : 2016年9月9日
本棚登録日 : 2016年9月9日

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