いい子に育てると犯罪者になります (新潮新書)

著者 :
  • 新潮社 (2016年3月17日発売)
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感想 : 58

【本書のまとめ】
反省させると犯罪者になる。
犯罪行為のほとんどは、加害者の不遇な境遇や歪んだ価値観によって引き起こされている。
反省が「被害者の気持ちを考えること」にフォーカスを当てている限り、加害者は「反省したふり」をするだけであり、「自分は何故その行為に及んだのか?」という問題の根本に目を向けなくなってしまう。
加害者が自分の罪を認識し更生するためには、反省ではなく、「自分自身が事件を起こすに至った原点」を見つめ。内面の問題を理解し、否定的な感情を吐き出すことが必要である。
自分の否定的な感情を吐き出すことができれば、自然と相手への罪の意識が湧き上がってくる。


【本書の詳細】

1 「うわべだけの反省」ではまた罪を繰り返すことになる
自分が起こした問題行動が明るみに出たときの人間の心理は、まず「後悔」が来る。これは心理学的に通常の反応である。もし容疑者がすぐに反省の言葉を述べたとしたら、それは表面的な「反省のふり」にすぎない。「周囲に迷惑をかけた」といって謝罪する気持ちと、「自分自身の罪を考えること」は全く違うものである。
そもそも、重大事件を起こした後は、自分自身のことで頭がいっぱいである。罰はなるべく受けたくはない。受けるとしても軽いものがいい。弁護士と話し合いながら、裁判をどう切り抜けるかでいっぱいいっぱいである。そうした中にあっては、被害者のことにまで気を配る余裕がないのは当然だ。

また、加害者は被害者に対して、大変厚かましくはありながらも、不満を持っていることが多い。不満を抱いた犯罪者たちに、被害者の苦しみを考えさせて反省させるような指導方法は、不満を心でくすぶらせ続けるだけでほとんど効果は無い。
どうればいいのか。それは、「反省させないこと」だ。被害者に対して不満があるのであれば、まずそれを語らせる。自分自身の本音を語らせることで、自分の内面と向き合うことが出来るからだ。

2 反省文
問題行動が現れた時に反省文を書かせることは、書かされた人の本音を抑圧する。そしてさらなる抑圧が生まれ、最後には爆発してしまう。
問題行動というのは、その人がしんどさを発散する行為である。問題行動が出た時は支援のチャンスだ。反省文を書かせるのではなく、その人の言葉にじっくりと耳を傾け、否定的な感情を口から出させることが重要である。逆に、反省は自分の内面と向き合う機会を奪ってしまうのだ。

3 受刑者を更生するには
「真面目に刑務を務めること」は再犯の危険を生む。単調な刑務作業を繰り返すだけの日々を送っていると、真面目に努めて出所するだけが目標となり、彼等の頭からは被害者に対する罪の意識が薄れていく。本来であれば自分の犯した罪に対して心から反省し、更生することを目標とするべきなのに、刑期を気に掛けるようになってしまうと、何よりもまず刑務官の評価を気にするようになり、口答えをせず他の誰ともつるまなくなり、自身の気持を抑圧することにつながってしまう。そのような態度のままでは、出所した後も再度犯罪を起こす可能性が高くなってしまう。
受刑者は、例外なく不遇な境遇のなかで育っている。そういう意味では、彼らは「加害者」でありながら「被害者」の側面も有している。加害者である受刑者の、心の中にうっ積している「被害者性」に目を向けるため、まずは「加害者視点」でのケアから始めたほうが効果的である。

加害者視点でのケアを行うことで「真の反省」が生まれる。真の反省とは、自分の心のなかにつまっていた寂しさ、悲しみ、苦しみといった感情を吐き出した後に、自然と心の中から芽生えて来るものだ。問題行動を起こした受刑者に対して、反省をさせるのではなく、「何故犯罪を起こすに至ったのか」を探求していく姿勢で臨むことが、真の立ち直りを促す。

1 自分自身が事件を起こすに至った、原点(生い立ち、価値観)を見つめる。
2 内面の問題を理解し、否定的な感情があることに気付く
3 否定的感情を吐き出す。吐き出すと、自然と相手への罪の意識が湧き上がってくる。

また、彼らが更正するためには、人とつながって「幸せ」にならなければならない。「人を殺しておいて、人とつながって『幸せ』になるなんてとんでもない」と思う人もいるかもしれないが、人とつながって幸せになることこそ、人の存在の大切さを知り、同時に自分が殺めてしまった被害者の命を奪ったことへの「苦しみ」につながる。この「幸せ」と「苦しみ」の中で生きることが、贖罪の気持につながる。

そのため、刑務所の中で「本音で話せる場」「つながりを作れる雰囲気」を確保しておく必要がある。


4 しつけ
「我慢できること」「一人で頑張ること」「弱音を吐かないこと」「人に迷惑をかけないこと」といった価値観でのしつけが、いじめを生む原因となりうる。自分の中に、「正しい」と思って刷り込まれた価値観が多ければ多いほど、それに沿わない人を許せなくなるからだ。
「こうすべきだ」「お前はこうあるべきだ」「こうでないといけない」という「ありのままの自分ではいけない」という指示・命令をたくさんもらった人ほど、内発的な道徳観を持てず、軽微な犯罪に走ることが多いのかもしれない。
この場合も、「いじめた側」の視点にまず立ち、いじめた人の内面や価値観の根底を探ることが必要である。

子どもに対しては、叱るのではなく受容的な態度で臨む。「何を思っているか話してくれない?」と語り掛けることで、「本音を言っていいんだ」という気持ちにさせることが大切。
そして、決して正論を言ってはいけない。親の立場から言った正しいことに子どもは歯向かえないため、「そんなに怒られるなら絶対に本当のことは言わない!」となってしまう。

問題行動が起こったときだけでなく、日常生活の中でも、他者とよい関係を築くために、相手に「うれしい・寂しい・ありがとう」という気持ちを素直に伝えることが大切だ。
例えば、仕事の合間に、少しの不満と怒りを発散し、ため込まないこと。自分自身の「子どもの部分」をもっておき、それを出せる場を確保しておくこと。子供っぽさ、弱さ、甘えを出せるよう自分の感情に素直になり、人に頼ることだ。


【感想】
昔はだいぶ悪いことをしていたが、今はしなくなったという人は多いと思う。しかし、その行為を辞めたのは罪の意識を感じたからではなく、「自分が大人になり、仕事や家族という関係性が構築された結果、犯罪で失うものが多くなってしまったがゆえ自制するようになった」という人が多いのではないだろうか。
これも筆者が本文中で述べている、「反省したようで反省していない」パターンである。
そうした「言葉と本心がかみ合っていない」ことを放置し、ただ反省の弁を述べさせるのはその場限りの対処療法にすぎず、いずれ同じ過ちを繰り返してしまう。

ではどうするのか?端的に言えば、「悪に対して抑止的な解決方法はやめよう」ということである。
人の行動には感情が潜む。悪い行動には、必ず悪い感情が潜んでいる。それは子どものころに受けた深いトラウマなのか、ストレスから生じた突発的な擦り傷なのかはまちまちだが、まずは自分の傷と向き合い、「何故その傷が出来たのか?」という原因を特定し、完治した後で相手に謝るのが効果的ということだ。

しかし、ここで事態を複雑にするのが被害者の存在である。
被害者は加害者のことを許せない。被害者が死亡したときには、被害者家族は加害者を同じ目に合わせたいと思うのが道理である。そこに「段階的に治療しているのでしばらくお待ち下さい」という理性的な物言いは通じるわけがない。この関係性の中で、如何に被害者と加害者が折り合いをつけるのか?反省はいつから行い、そして「いつまで」行われなければならないのだろうか?
事件の傷を完治するためには被害者の協力が必要になる。それは犠牲者としての立場からは、あまりに難しい行いではないだろうか。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2021年2月9日
読了日 : 2021年2月9日
本棚登録日 : 2021年2月9日

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