ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

  • みすず書房 (2012年3月23日発売)
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【感想】
「言語が人の認知に影響を与える」という学説は、今や広く知られている。
では、「右」と「左」の概念が無い人々は、いったい世界をどのように見ているのか?

本書は、言語学者であり宣教師でもある筆者が、アマゾンに住む民族「ピダハン」と生活し、彼らの特異な文法から生活様式と価値観を紐解いていった一冊である。

ピダハンは非常に原始的であり、実際に見たものしか信じない。それは「論より証拠」の範疇を超えており、文法と思考そのものが「実際に見た」ことしか語れなくなっているのだ。そのため、ピダハン語に未来完了形はなく、「左右」「数字」「色」といった、原風景を抽象化する概念も存在しない。

人間の歴史は空想と物語によって発展してきた。神、王、国、人権、生存権、貨幣と信用などのように、物質的には存在しない概念に言葉と定義をつけることによって、個人が集団に、集団が国に、国が世界に統合することが可能になった。こうした名づけがなければ、人間が自分の手の届く範囲以上に発展することは不可能だったであろう。

ピダハンは、そうした人類の進歩の初期段階に位置する手つかずの人間達である。
では、彼らはわれわれに比べて劣った民族なのだろうか?

筆者はこれにNOと答える。「文法が有限だからといって、その言語が乏しいとかつまらないものであるとは言えないのだ。」

私たちは自然と、原始的民族は私たちより劣った人間であるとみなす。その思いは物質的豊かさの違いから来るものだけではなく、知識の多寡と文化的な重層感から来るものでもある。早い話が、「われわれは複雑な社会だからエライのだ」という感覚を持っているからである。
しかし、社会の複雑さを捨て去って、抽象的概念、つまり「未来についての心配」を思考そのものから取り払っている彼らは、周りまわって幸福な人々ではないだろうか。これ以上進歩しない代わりに、これ以上未来を知ろうとする必要もない。身の周りのことのみを考えて、一瞬一瞬を懸命に暮らすというのは、盲目ではなく一種の諦観だと言えるだろう。

言語とはなにか、文化は言語に規定されうるか。
ピダハンの価値観の珍しさに触れながら、筆者のフィールドワークの結晶を楽しんでいただきたい。

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【本書のまとめ】
1 ピダハン語の特異性とピダハン語話者による認知
ピダハン語:ブラジル・アマゾンの少数民族ピダハンの人々岳が使用している言語で、現在4,500人しか使用者がなく、消滅の危機にさらされている。

ピダハン語は現存するどの言語とも類縁関係がない。
ピダハン語には、言語学で言う「交感的言語使用」が見られない。交感的言語使用とは、こんにちは、さようなら、ご機嫌いかが、といった、新しい情報を提供するものではなく、人間関係の維持や対話の相手を和ませるものだ。ピダハン語にはありがとう、ごめんなさいに相当する言葉はなく、気持ちを態度で表現する。

同様にピダハン語には、多くの言語に見られる要素が欠けている。比較級、色、数字を表す言葉もないのだ。それでいて文章のつなげ方が恐ろしく難しい。
極めつけは方角である。ピダハンには右や左という概念がなく、方向を「上流」と「下流」で表す。ピダハンは常に自分と川との位置関係を把握しているのだ。

環境をどう感知するかということさえも、自分の先入観や文化、そして経験によって、異文化間で単純に比較できないほど違ってくる場合がありうるのだ。
ピダハンの言語は、世界についてわたしたちとは異なる視点を使い手に要求している。では、我々とは違った世界の見方をしている「ピダハン」の文化とはどういうものなのか?


2 民族的ふるまい
ピダハンは俗にいう「部族」らしい部族ではない。儀式やボディペインティングをせず、アマゾンの他の部族のように、目に見える形で文化を誇示しない。

ピダハンの生活は物質とは無縁だ。家は天候から身を守るための簡素な小屋である。彼らは道具類をほとんど作らず、芸術品はほぼ皆無。あるとすれば弓などの狩猟道具だ。

ピダハンは、われわれほど「食べ物」を重要視していない。
まず彼らは3食も食べない。たいていは日に一食であり、食べられるものがあるときは無くなるまで食べつくす。それは食べ物が無いわけではなく、食べるという行為の優先順位が低いから、食べ物を口にしていないのだ。

ピダハンは食品を保存する方法を知らない。それどころか、道具を軽視し、使い捨ての籠しか作らない。
将来を気に病んだりしないことがピダハンの文化的な価値なのだ。

加えて、彼らは儀式も行わない。何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌い、その代わりに価値や情報を、実際に経験した人物が行動や言葉といった「生の形」で伝えようとするのがピダハンなのだ。


3 家族と集団
ピダハンは穏やかで平和的な人々だ。ピダハンはどんなことにも笑い、いつも幸福な顔をしている。
ピダハンは他の社会にはないほど家族関係が親密であり、集団意識がとても強い。一方、隣人と気軽に性交渉をしてもそれを善悪の基準として見ておらず、血縁を基準とした社会的基盤は薄い。浮気も普通にする。浮気したふたりは村を離れ、そのあいだ元の配偶者は彼らを探す。村を出たふたりは戻ってきて一緒に暮らしはじめる場合もあれば、元の鞘に収まろうとする場合もある。
ピダハンは平穏を大切にしているが、仲間内の規範を破らないというわけではない。ただピダハンは、互いに助け合い、ときに他者の野蛮なふるまいにも忍耐強く愛情たっぷりに理解しようとするだけだ。

ピダハンは、子どもを大人と対等に扱い、庇護する対象とは見ていない。乳離れすれば大人と同様に小食を強いられ、自分の力で狩りをすることを求められる。
その背後には、「適者生存」のダーウィニズムがあるのだ。


4 自然と直接体験
ピギー:ピダハンが考えている地球の階層のこと。ピダハンは、この宇宙と地球がサンドイッチのように複数の階層になっていると信じている。

ピダハンには数字の概念が無い。また、色の概念もない。
それは、ピダハンは「語られるほとんどのことを、実際に目撃されたか、直接の目撃者から聞いたことに限定する」という価値観の中生きているからだ。

ピダハンの言語と文化は、「直接的な体験ではないことを話してはならない」という文化の制約を受けている。ピダハンたちは、自分たちが話している時間の範疇に収まりきることについてのみ言及し、時間の埒外には言及しないのだ。

これがピダハンを取り巻く「直接体験の法則」である。だから彼らには歴史や創世神話も無く、血縁関係も単純(自分が直接触れ合える範囲より外に広がらない)であり、数字という抽象的な記号の概念もないのだ。

それでいて、ピダハンはよく「精霊と会った」と言う。彼らの言う精霊とは現代人の論じるスピリチュアルな存在ではなく、実際に「いる」ものとして、接触し、話し、自らに降霊させるものである。
彼らは体験したものしか語らない。そのため、夢は彼らにとって「現実の体験」のように語られるのだ。


5 ピダハン語の言語構造
ピダハン語に音素が少ない(母音3種類、子音8種類)のは、口笛語り、ハミング語り、音楽語り、普通の語りなど、ディスコースのチャンネル(伝達の回路)がたくさんあり、子音も母音もさほど重要ではないからだ。

言語とは、構成部分(単語、音声、文)の総和ではない。純然たる言語だけでは――その言語を成り立たせている文化の知識なしでは――十分なコミュニケーションや理解には不足なのだ。

ピダハンは外国の思想や哲学、技術などを取り入れようとはしない。自分たちの文化に位置づけられていないもの、例えば他の宗教の神々や西洋的なバイキンといったものを話題にするということは、彼らに生き方やものの考え方の変革を迫る。ピダハンはそれを拒んできたため、話法が外部からわかりにくくなっているのだ。

わたしたちは往々にして、自分たちが価値を認める事柄や、その事柄について言葉にするやり方はあくまでも「自然発生的」なものだと思いがちだが、そうではない。むしろ、ある特定の文化、特定の社会にたまたま生まれついたことによる、いわば偶発的なモノなのだ。

ピダハン語には関係節がない。
例えば、「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」と話したいとする。通常の言語では「ダンが買ってきた針」と「針を持ってきてくれ」の2つの文を並列にしたり入れ子にしたりして、一つの文として結合させる。
しかし、ピダハン語では「針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ」と言う。形の上では関係節とは言えないが、短文を並べることで関係節の表現を作っているのだ。

ひとつの文や句が別の文のなかに入ってくる入れ子構造のことを「リカージョン」と呼ぶ。リカージョンは言語の豊かさのカギであり、リカージョンによって際限なく続く無数の文を作ることができる。かつてはリカージョンが人間の言語に不可欠の本質的機能だと考えられていた。
しかし、ピダハン語にはリカージョンがないのだ。つまり、リカージョンは頭脳が利用できる道具の一つであるが、必ずしも使われるとは限らないということが分かったのだ。

それはなぜなら、ピダハンの文化がIEP(直接体験)にもとづいているからだ。
「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」は2つに分解できる。「針を持ってきてくれ」と「ダンが買ってきた針」だ。そのうち、前者は断定であるが、後者に断定はない。ダンが本当にその針を購入したことを前提にできない以上、入れ子構造で文を作れない。だから、「針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ」と断定文を続けるしかなくなる。ピダハンの文法はIEPによって制限を受けているのだ。

リカージョンがないとは、文法上生成しうる文の数には上限があるということだ。
だからといって、言語そのものが有限なわけでは無い。なぜなら、ピダハンが紡ぐ「物語」にはリカージョンが見られる――伏線や登場人物やさまざまな出来事が折り重なり、入り組み、絡み合ってできているからだ。文法が有限だからといって、その言語が乏しいとかつまらないものであるとは言えないのだ。

言語や情報伝達の本質を理解するうえでは、文法だけが頼りではない。言語とはもっと広い人間の認知の所産であり、人間固有の特殊な文法などではない。

わたしたちは誰しも、自分たちの育った文化が教えたやり方で世界を見る。けれどももし、文化に引きずられてわたしたちの視野が制限されるとするなら、その視野が役に立たない環境においては、文化が世界の見方をゆがめ、わたしたちを不利な状況に追いやることになる。

ピダハンに出会った筆者は、長い間当然と思い、依拠してきた真実に疑問を持つようになった。ピダハンとともに生活していくうちに、自分が信仰と真実という幻想の中に生きていることに気づいたのだ。
ピダハンは宣教師のように深遠なる真実を望まない。そのような考え方は彼らの価値観に入る余地がないのだ。ピダハンにとって真実とは、魚をとること、カヌーを漕ぐこと、兄弟を愛することであり、そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあると言えるのではないだろうか。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2021年6月9日
読了日 : 2021年6月1日
本棚登録日 : 2021年6月1日

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