わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座 (ちくま新書 832)

著者 :
  • 筑摩書房 (2010年3月10日発売)
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感想 : 44
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自分がうだうだ悩んでることに対して先人たちはもうずっと前から深く考え続けていてその軌跡を遺してくれてたんだなあ
鷲田清一さんの本、他も必ず読んでみよう

意識はしばしば感覚のひだのなかに身を潜めている。重ねられた唇と唇のあいだ、閉じられた瞼、収縮した括約筋、拳をにぎりしめたときの手、押しつけ合った指、組み合わされた腿と腿のあいだ、一方の足の上に置かれた足といった場合がそれである。(……)皮膚の組織は自らの上に折り畳まれているのだと思う。肌は己自身の上に意識を持っており、また粘膜も自分自身の上に意識を持っている。折り畳まれたひだもなく、自分自身の上に触ることもないならば、真の内的感覚も、固有の肉体もないだろうし、体感も感じなくなり、(……)静止したような失神状態の中で意識もなく生きることとなろう。
悔しくて唇をぐっと噛みしめるとき、気合いを入れようと括約筋をぐっと締めるとき、大事なひとの安全を祈ろうとしっかり掌を合わせる時、そのときその皮膚が合わさった場所にこころはあると、セールは考えるのである。

顔を見つめあうとき、まなざしはすぐに金縛りにあったように、凍りつき、凝固してしまう。目がかち合うと、まなざしはたがいに密着してしまい、相手のまなざしを見るということ、つまり距離を置いて対象として見ることは不可能になる。見ることそのことが膠着するか、そのような膠着のなかで視線を無理やり引き剥がすか……。いずれにしても平静に相手の眼を見つづけることはできない。
……顔と顔のあいだは、言ってみれば、こうした粘着と引き剥がしという相反する力が交差する場、いわば磁場のようなものなのである。
……それは対象となることを拒む。それほどまでに顔は壊れやすい。じっと見つめられたときの居心地の悪さを思い出せばよい。視線が、見返す眼が、顔を壊し、歪める。かぎりなく近くにありながら、まさにそのときにもっとも遠ざかり、もっとも隔てられているというこのもどかしさを経験したことのないひとなど、たぶんいないだろう。

つまり、人間の記憶というのは、縦並びから横並びへと徐々に変わってゆく。記憶は、若いあいだは何がどの年に起こったかが克明に記録されるクロノロジー(年代記)のかたちをとるが、やがてだいたいあの頃と言うふうに前後の秩序だけがはっきりしているパースペクティブ(遠近法)に移行し、最後は遠近もさだかでない1枚のピクチュア(絵)になる、というのだ。……ここには〈時〉をリニアに流れるものとしてとらえるのとは全く別の感受性がある。始めと終わりで区切られる直線の時間ではなく、ぐるぐる循環する円環の時間、輪廻転生の時間でもなく、別の「いま」が折り重なり、散乱している、そんな時間である。
〈時〉がばらけていくと言うのは、自分が、いや世界そのものがばらけてゆくということでもある。世界がそのようにばらけていって、「1枚のピクチュア」のようになったとき、世界はきっと、自分にとって意味のあることばかりが充満していながら、しかしどこか不気味な光景として現れてくるだろう。じっさい、過去のあるイメージが意識の中に現れることを拒み、それを無意識の中に圧しつめてきたわたしたちのそれじたい無意識の操作が、ある時不意にむき出しになることがある。その時、異なる「いま」の散乱のなかで、壮年期まで必死で紡いできた物語がばらけ、これまで意識したこともなかった別の下絵が浮き上がってくる。そのことによって、わたしたちはこれまでの「わたし」の外に出る。

つまり、苦しみや鬱ぎを当初あったのとは別の地平と移し変えるところに、他者を前におのれについて語ることの意味はある。語るということは、相手に回答をもらうということではない。見えない自分の姿を移すために、その鏡の役を相手にしてもらうことであるのだ。
……言葉というのは不思議なもので、交わせば交わすほどたがいの違いが際立ってくる。たがいに理解しあうということ、相手のことをわかるということは、相手と同じ気持ちになることだと思っているひとが多い。しかしそれは理解ではなく合唱みたいなものであって、同じものを見ていても感じることがこんなにも違うのかというふうに、違いを思い知らされることが、ほんとうの意味での理解ではないかと思う。
……聴くというのも、話を聴くと言うより、話そうとして話しきれないその疼きを聴くということだ。そして聴き手の聴く姿勢を察知してはじめてひとは口を開く。そのときはもう、聴いてもらえるだけでいいのであって、理解は起こらなくていい。
……こうして一つ、たしかなことが見えてくる。他者の理解とは、他者と一つの考えを共有する、あるいは他者と同じ気持ちになることではないということだ。むしろ、苦しい問題が発生しているまさにその場所にともに居合せ、そこから逃げないということだ。

むきだしの〈個〉
できないことを「できる」ことの埋め合わせるべき欠如と考えるのではなく、「できない」ことそのことの意味を考え、そこからあえて言えば、「できなくなることでできるようになること」というか、かならずしも「できる」ことをめざさない、そういう生のあり方をこそ考えねばならないであろう。

家族とは葛藤のるつぼである。しかもそこから下りることを許さない関係である。よほどのことがなければ解消できない関係である。

では、思考のその肺活量とは何か。それは、いますぐわからないことに、わからないままつきあう思考の体力と言ってもよいし、あるいはすぐには解消されない葛藤の前でその葛藤にさらされつづける耐性と言ってもよい。
……「これはこれです」
曖昧なものを曖昧なままに正確に表現する、一箇所もゆるがせにしないで、正確に、これしかないという表現へともたらすこと、これが画家の力量である。
……大事なことは、困難な問題に直面したときに、すぐに結論を出さないで、問題が自分のなかで立体的に見えてくるまでいわば潜水しつづけるということなのだ。それが、知性に肺活量をつけるということだ。目の前にある二者択一、あるいは二項対立にさらされつづけること、対立を前にして考え込み、考えに考えてやがてその外へ出ること、それが思考の原型なのに、そうした対立をあらかじめ削除しておく、均しておくというのが、現代、ひとびとの思考の趨勢であるように思われてならない。

哲学の仕事は、だれもが仄かに感知しているのにまだよく摑めていない、そういう時代の構造の変化に、概念的な結晶作用を起こさせることにあるはずだ。未知の概念をそこに挿入することで、その変化にある立体的なかたちを付与するものであるはずだ。時代はつねにそういう発見的な言葉を求めている。
そういう視界を概念によって開くためには、「わたしたち」の生のうんと外側に光源をとって世界を見るようなまなざしが必要である。「わたしたち」の思考のなかに安住していては、そういう補助線は引けない。ひとが見たいと思っているのは、その視野のなかで最良のものでしかない。ひとは「わたしたち」の外輪山のさらにその外側に視点をとって、いわばもっと「大人げない」夢を見なければならない。
→プロレタリア、無意識、狂気、飼い慣らされていない生の芸術(幼児や精神障碍者の描画)、過去の社会

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2020年10月18日
読了日 : 2020年10月18日
本棚登録日 : 2020年10月18日

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