通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで (中公新書)

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  • 中央公論新社 (2016年8月18日発売)
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古代から現代日本にかけての日本の貨幣史を述べたのが本書である。冒頭で、貨幣の定義として経済学の教科書でお馴染みの「交換手段」、「価値尺度」、「価値貯蔵手段」に加えて、債務決済や贈与、納税など社会的義務に基づく「支払手段」が挙げられている。(P.4)

天武朝の時代に、日本最古の国産銅銭である富本銭が鋳造された。富本銭発行の目的の一つとして、藤原京建設のための物質購入と労賃の支払が挙げられている。つまり「国家支払手段」として発行された。上に挙げた貨幣の定義の「支払手段」である。奈良時代に発行された皇朝十二銭の多くがそうした「国家支払手段」として発行された。古代朝廷の通貨政策は「総じて、朝廷が財政支出した銭の受領を人々に強制する政策である。国家支払手段の機能を朝廷は期待しており、一般的な交換手段の機能を第一の目的とはしていない」 (P.15)と述べられている。古代朝廷による銭の還流政策の失敗、材料の銅不足、そして何よりは古代朝廷の建設事業の中止による国家支払手段の喪失を持って、貨幣発行は停止してしまった。

十二世紀から十六世紀にかけての中世では、中国から渡来銭が大量に日本に流入した。到来の波は南宋、金、元からの三つの大きな波があり、いずれも歴代王朝が銭の使用禁止、紙幣政策の採用によって、大陸から押し出される形で日本に中国銭が渡来した。古代における国家支払手段としての銭とは違い、勝手に社会で渡来銭が自律的に流通したのが中世の特徴である。(P.28-P.45)

中世全般にかけて、民間の貨幣需要に対して渡来銭による貨幣供給が不足気味だった。その不足を補うために、私鋳銭の製造や割符や祠堂銭預状といった紙媒体の紙幣普及、さらに紙さえ使わない口頭による信用取引が誕生した。中世の大きな特徴として、支払決済時に特定の銭の受取りを拒否する撰銭があり、中世では撰銭が頻発していた。人々の撰銭に対して、戦国大名は撰銭令を出して撰銭行為をやめさせようとした。本書では、信長による撰銭令が大きく取り扱われており、撰銭令を出したにも関わらず、人々は信長が禁止した米の通貨利用をやめなかった。(P.74~P.78) 信長、そして後を継いだ豊臣秀吉は、ビタ(はたかけ(端が破損)、ひらめ(無文銭)、ころ(加治木銭)、へいら(仕上がりが粗末な銭)を除いた特定の低品質銭以外すべて)を基準銭として流通させて撰銭による銭の階層化を平準化させる政策を採った。しかし、これはビタを基準銭とする社会慣行の後追いである。(P.79~P.84) このように時の権力が銭の社会慣行を追認するというのは、日本の貨幣史に多く見られた現象である。

豊臣政権後に、家康によって、江戸幕府が開幕。江戸幕府は金貨、銀貨、銭を製造して三貨制度が成立する。製造年代を見ると、1601年に慶長金、慶長銀の製造開始、1636年に庶民が使う寛永通宝が製造を開始する。寛永通宝発行の前年に参勤交代が開始しており、参勤交代時の宿場での両替のための寛永通貨発行、つまり武士階層のための交通対策であったと述べられている。金貨・銀貨の発行先行は主に「財政需要に基づくものであり、庶民の通貨需要は後回しであった」(P.93)と述べられている。

国内の鉱山資源の枯渇、海外貿易による貨幣流出(金貨・銀貨・銅銭そのものが「商品」として輸出されていた)と幕府財政赤字化により、綱吉政権下で荻原重秀が主導して貨幣の改鋳が行なわれる。元禄の貨幣改鋳である。萩原による元禄の貨幣改鋳は、通貨流通量を増やすのが主目的だったとリフレ派の学者、エコノミストによって唱えられているが、やはり出目(通貨発行益、マネタリ―・シニョリッジ)獲得による財政ファイナンスが主目的で、通貨流通量の増大策は副次的なものだったと個人的には思う。筆者によれば、「この後も幕府の通貨政策の基本路線は江戸に住む将軍や大名の財政対策であり、彼らの利害に基づく。庶民の保護という発想はなく、あったとしても二次的だった。」(P.123) との事だ。綱吉政権下での貨幣改鋳はその後の金貨・銀貨の名目貨幣化の先駆けになった。

荻原重秀失脚後の新井白石による「反動」政策を除いて、その後の幕府の貨幣改鋳では貨幣の質は落とし続けられた。徳川吉宗による享保の改革後期での貨幣改鋳を経て、田沼意次が政治を主導した田沼時代に至る。田沼意次、勘定奉行の川井久敬の主導によって、1772年(明和九年)に明和二朱銀が作られる。明和二朱銀には「これ八枚を小判一枚に兌換する」という表記があり、1/8両=金貨二朱に相当する計数貨幣である。銀製だが金貨の単位を持つ計数貨幣を、金貨単位計数銀貨と呼んでいる。(P.139) 明和二朱銀は普及して成功だった。田沼の通貨政策は、明和二朱銀という金貨単位計算銀貨の普及により、金貨が実質的に一元化して、(疑似)金本位制に近づいたと本書では大きく評価されている。(P.109) 田沼意次失脚後に松平忠邦の天保の改革を経て、十一代将軍家斉の下で、1818年に水野忠成が老中に就任した。忠成は田沼派の系譜に当る。忠成は発行益獲得による財政補填のために、貨幣を改鋳して多くの種類の貨幣を製造させた。本書では、田沼意次についで水野忠成が大きく評価されている。「これら通貨が供給されたことが、近代に向けて庶民経済が発展する契機となった。通貨供給による幕府の財政収入(発行益)増加→財政支出増加→通貨供給量増加→物価上昇→商品(農産加工品)生産増加→国民一人あたりの所得増加というプロセスが発生したからである」(P.152) このサイクルがうまく回ったことで、経済は成長して化生文化が栄えたとされている。

1853年にペリーが来航、1858年に日米修好条約調印により、自由貿易が開始される。開国前の幕府の対外通貨交渉の失敗により、多くの金貨が海外に流出して、それが倒幕の遠因になった(例えば、佐藤雅美『大君の通貨』など)と以前は考えられていたが、最近の研究だと、金貨流出は、従来の研究の推定より少ないと考えられているようだ。(P.174) 幕府崩壊後に明治政府が成立、日本銀行成立前の太政官金札発行といった過渡期を経て、1882年に日本銀行が成立。1897年に日清戦争後の賠償「金」により日本は金本位制へ移行する。その後に、太平洋戦争、高度成長を経て現代にいたるというのが大まかな流れだ。

全体的な感想としては、専門が中世史、近世史の先生なので、中世・近世に多くの記述が割かれている。明治時代以降の描写は駆け足気味。一層のこと、明治時代で記述を切ってしまっても良かったのではと思うところがある。内容が詰め込み過ぎなのが気になった。前に読んだ東野浩之『貨幣の日本史』の方が記述はあっさりしているかな。初めて貨幣史の本を読む人はあちらの方がいいかもしれない。内容はしっかりしたもので手堅い記述となっている。参考文献が8ページに及び、そこはとても誠実である。より学びたい人はここから多くの書籍に触れられるだろう。某経済評論家が「経済で学ぶ日本史」と称して五冊を抱き合わせ販売しているが、そんなものを読んで時間を空費するよりは、本書を読んで参考文献に当るのが遥かに賢明であろう。本書は、貨幣史への最初のステップとして激しくお薦めです。

評点 8点 / 10点

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本史
感想投稿日 : 2019年5月15日
読了日 : 2019年5月15日
本棚登録日 : 2019年3月2日

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