シーシュポスの神話 (新潮文庫)

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  • 新潮社 (1969年7月17日発売)
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人生の不条理について、自殺、人物像、小説、神話を軸に説いた本。

刊行から半世紀が経っているのでしかたないが、absurde =「不条理」という訳語のせいで深遠な雰囲気が先行してしまい、言葉だけがひとり歩きしていないか。たとえば「ばかばかしい」という訳語に刷新するだけでずいぶん印象が違うはず。

ともあれ『幸福な死』のMersault←mer(海)+soleil(太陽)、『異邦人』のMeursault←meurs(死ぬ)+soleil、海と太陽と死はカミュがくり返し語った3つの主題、という解説がおもしろかった。

【引用】

●哲学上の自殺

ガリアニ神父がデピネ夫人に語ったように、重要なのは病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ。キルケゴールは病から癒えることをのぞむ。病から癒えること、これがかれの懸命な願い、かれの日記を終始つらぬいて流れている願いである。(70-71頁)

●征服

ひとは、口に出して語ることによってよりも、口に出さずにおくことによって、いっそうそのひと自体である。ぼくは多くのことを口には出さずにおくだろう。(151頁)

観想と行動とのどちらかをえらばねばならぬときが、かならずやってくる。こういう選択、それが人間になるということだ。(153頁)

そう、人間自体が人間の目的である。そしてまた、それが唯一の目的でもある。人間がなにものかであろうと欲するのは、この生においてだ。いまやぼくにはそのことが充分すぎるほどよくわかる。(156頁)

●哲学と小説

大切なのは、不条理とともにあって呼吸すること、不条理の教訓を承認し、その教訓を肉体のかたちで見いだすことである。こう考えた場合、最高度に不条理な悦びは芸術創造である。ニーチェはいっている、「芸術、ただ芸術だけだ、われわれは芸術をもっているからこそ、真理ゆえに死ぬということがなくてすむのである」。(166-7頁)

創造するとは二度生きることだ。プルーストの、不安におののきながら、手さぐりで進むような探求、花々や綴織りや苦悩の細心な蒐集は、二度生きるということ以外のなにものも意味しない。(167頁)

真の芸術作品は、つねに、人間の尺度に釣合っている。それは本質的に、《よりすくなく》語るものだ。芸術家の経験の全体とそれを反映する作品とのあいだには、『ヴィルヘルム・マイスター』とゲーテの成熟とのあいだには、ある関係が存するのだが、作品が説明的文学の花文字で飾られた仰々しいページのなかに全経験をもりこんでいると自負している場合、それは悪い関係である。作品が経験のなかから切りとられた一片、いわばダイヤモンドの一切子面──ダイヤモンドの内部の輝きがみずからにすこしも制限を加えずにそこへと集約されているような一切子面──にほかならぬ場合、それはよい関係である。前者の場合、そこに見られるのは経験の詰めこみすぎ、そして永遠への意図だ。後者の場合、作品のなかに直接もりこまれていない経験が言外に匂わされており、その豊かさが推測できる、──したがってそれは豊饒な作品だ。(173-4頁)

●キリーロフ

ドストエフスキーの主人公たちは、だれもが、人生の意義について自問している。その点でかれらは現代人だ。つまり、かれらは滑稽になることをおそれない。現代的感受性と古典的感受性とのちがいは、古典的感受性は道徳的問題によって養われるが、現代的感受性は形而上学的問題によって養われるという点にある。(185頁)

●フランツ・カフカの作品における希望と不条理

カフカの芸術のすべては、読者に再読を強いるというところにある。カフカの作品における物語の解決のされ方、というかむしろ解決の欠如を読むと、読者はさまざまな説明を思いつくが、そうした説明はどれもはっきりとしたかたちで浮びあがってはこないので、それを根拠のある説明たらしめるためには、どうしても物語を新しい角度から読み直さざるをえなくなるのだ。(221頁)

【目次】

不条理な論証
 不条理と自殺
 不条理な壁
 哲学上の自殺
 不条理な自由

不条理な人間
 ドン・ファンの生き方
 劇
 征服

不条理な創造
 哲学と小説
 キリーロフ
 明日をもたぬ創造

シーシュポスの神話

《付録》フランツ・カフカの作品における希望と不条理

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2023年1月15日
読了日 : 2023年1月15日
本棚登録日 : 2023年1月15日

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