目の前に二種類の毒があるとするでしょ。
1つは、甘くて綺麗な色ですぅ……と眠るように死ねる毒。もう1つは、苦くてけばけばしい色で喉を掻きむしながら死んでいく毒。
今まで読んだ小川洋子さんの小説には、時々そんな毒を飲まされたような気持ちになるものがあった。『ホテル・アイリス』は、私にとって後の方の毒。久しぶりのこの感覚。『妊娠カレンダー』や『ダイヴィング・プール』『揚羽蝶が壊れる時』を読んだとき以来かもしれない。
17歳の少女マリは、50近くも歳の離れた男の加虐的な愛に陶酔する。
でもマリは、本当に男を愛していたのかな。
ロシア語の翻訳家であった男との突然の幕切れを、マリは淡々と受け止める。
だけど、男が「マリーという名の主人公が出てくる小説を翻訳したノート」には執着の様子を見せる。その小説には、マリーが元恋人の子どもを妊娠し、そのことを知った政略結婚の相手が、彼女を裸にし、髪をつかみ振り回し、冷たい湖へ突き落とし、堕胎用の薬を無理矢理飲ます……という場面がある。(恐ろしい……)でも翻訳家は、もがき苦しむマリーの姿にマリを重ね、すばらしいシーンだと彼女に伝える。
そんなノートを欲するマリに、私は彼女が愛したのは男自身というよりも、快楽を教えてくれる男の声や指、身体を縛る紐。恍惚とした性愛の時間。更には、醜くければ醜いほうがいい男の肉体に仕えるみじめな自分だったのではと思った。
かわいいマリと母に可愛がられ、その実、高校を辞めさせられ、ホテル・アイリスという鳥籠の中に閉じ込められ一生を終えるであろう自分。
「あなたのかわいいマリは、人間の一番みにくい姿をさらしてきたの」と胸の中でつぶやくシーン。ある意味、母に対する裏切り行為をしたことで、少女が解放された清々しさを表現した一言ではないだろうか。
肉の塊として愛されること。それが本当の自分を解放していく。ならば自分を容赦なくおとしめ愛してくれる男の行為はマリにとって離れられないもの。だからこそ、男が後半に登場する甥を愛おしく可愛がることに対して、マリは甥に嫉妬するのだ。
男の発する命令の美しい響き。指の仕草。伏し目がちの視線。息遣い。それが自分だけのために向けられていること、それがマリにとって一番大事なことなのだろう。
もうひとつ。マリの中では男が奥さんを殺したという噂が重大な意味を持っていたのではないか。この快感を教えてくれる男の指が関節が血管が、自分を生から死へと誘おうとする。生きていると思えるこの瞬間に死を強く意識すること。もしかしたら、それこそがものすごくエロティシズムなことなのかもしれない。
- 感想投稿日 : 2020年1月9日
- 読了日 : 2020年1月9日
- 本棚登録日 : 2020年1月9日
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