ディスタンクシオン <1> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー

  • 藤原書店 (1990年4月20日発売)
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ディスタンクシオン、英語読みで、ディスティンクション。
他者と自分とを差別化することで、自分を認識すること。
ただ、その差別化の仕方が、相手を侮蔑、貶めて相対化するのではなく、フラ語では上品、高等な、という意味合いもあることから、どちらかというと、自分自身を高めるニュアンスの方が理解する上では正しい。そのため、日本語訳では、卓越化という言葉が採用されている。

フランスの現在もなお残る階級社会という社会階層、身分の差が、人々の趣味、すなわち人々の日常の生活様式、慣習行動という目に見えない部分にまで影響を与えているということを述べた作品。


つまり、本来的に個人の好みに関わる問題とされ、一見全面的に各人の自由な選択に委ねられているかに見える趣味の領域においてさえ、我々の判断が実は自分の所属している階級もしくは集団に固有の知覚・評価・判断・行動図式の体系(=ハビトゥス)によって厳密に方向づけられ規定されているということ、そしてそこには必然的に自らを他の階級・集団から区別し卓越化しようとする戦略が介入て来ざるを得ないということ、こうした基本認識の上に立って、種々のアンケート調査に基づく膨大な資料を駆使しながら、恣意的な差異を生産する分類=階級化のメカニズムがいかにして広義の「文化」をヒエラルキー化してゆくのかを明らかにしようというのが、ブルデューの意図である。



書中で、上流階級の人たちの趣味が正統趣味とされている。社会学においては、何が正しいとか正しくないとかっていうことは言えないし、だからこそ社会学だし、順だとか逆だとかいろいろ言われている中で、相対的に捉える必要が常にある学問だと思っていた。
だから、正統趣味って字面だけを見たとき、何が正統だ、ブルヂューアホか、って思ったけど、ちゃーんと書いてありましたよ!!

「正統性」は本来、「法律的に見て正当な根拠があること」すなわち「合法性」の意であるが、ブルデューはこれを成文化された法律や規則の存在するわけではないあらゆる文化領域に拡大適用し、支配者が被支配者に対して自らの文化の優越性を承認させるにあたっての基本的根拠と設定している。

こうした分節化をもたらす原理として機能しているのが区別=卓越化もしくは分類=等級づけclassmentの操作であることは言うまでもない。
それ自体の根拠を問われることは決してないという意味で、「正統性」とはこのようにいわば1つの虚構としての概念なのであり、おもはや恣意的なものとしては知覚されなくなるに至るまで正当化され、公認された恣意性、とでも言うべきなのである。

そうそう。正統とされているものほど、恣意的な、一方的なものはないね。だから僕は広告が嫌いなんだ。正統化しようと躍起になってさ~俺が正しいって顔してふんぞり返ってるでしょう?気持ち悪いよね~。一方でテレビですよ。テレビやネットはもちろん正統趣味を再生産している側面もあるけど、広告と違って逆もできると思うんです。逆ってのは、庶民趣味を伝えることもできるよねってこと。多様性に富んでいるっていう意味ではどっちかってったらネットの方が強いか。でも、ベクトル的に、庶民から上流へ向けてっていうボトムアップなニュアンスはテレビか。ネットは階級にしろ何にしろ、その人のバックグラウンドを最初はフラット化させるよね。
続きはディスタンクシオン2で。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: Sociology
感想投稿日 : 2010年9月18日
読了日 : 2010年9月18日
本棚登録日 : 2010年8月2日

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