草枕 (新潮文庫)

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日本近代を代表する夏目漱石(1867-1916)の小説、1906年。『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などと並ぶ代表的な初期作品。

特徴的なのは、まず以てその文体であろう。漱石特有の、江戸町人文化の感性からくるテンポの好さもあるが、何より読む者の注視を促すのはその饒舌に過ぎる漢語の語彙の奔流であろう。165ページの本文に対して、現代の読者に向けて付せられた330もの注解の多くが、作中に現れる漢語・漢詩へのものである。実際、漱石は本作執筆の前に漢詩集『楚辞』を読み返したという。この過剰なまでの語彙とともに漱石自身の芸術観・人生観・文明観が織り込まれていく中で、小説の筋というものがそこに埋もれてしまっている感がある。作中で「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋の外に何か読むものがありますか」と問われた主人公に、明らかにこの作品自体について自己言及させて、次のようなことを云わせている。

「・・・。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」

現実に於ける人間心理を一客体として透徹した目で観察し、そこに何らの思想・観念による粉飾・価値判断・美化を施すことなく現実を「ありのまま」に書き留める。作家をして「心理学者」「自然科学者」たらしめようとする所謂自然主義文学(そこでは人間心理に対する客観性、作品に於ける論理的一貫性が求められる)が、エミール・ゾラらの影響を受けた日本の文壇(坪内逍遥『小説神髄』など)に於いても主流となっていた時期である。ヨーロッパで誕生した新たな文学潮流としての自然主義は、19世紀にあらゆる文化領域に及んだ実証主義という思潮の文学における産物である。則ち、西欧近代精神の、文学に於ける率直な具現化である。

1900年、漱石は官費留学生として当時世界の中心であったロンドンに留学し、神経症を患うほどに近代というものの即物性を見せつけられた。それは、日本政府は西欧近代文明を自らの腹に詰め込もうと躍起になっていた時期である。そんな折に発表された『草枕』は、近代文学としての自然主義への、ひいては日本近代への、アンチ・テーゼを提示しようとしたのではないか。漱石は、本作を以て、自我・我欲への執着および他我への欺瞞的配慮から悠然駘蕩と解脱する、超俗(作中の所謂「非人情」)の文学を定立しようと意図したのではないか。横溢する漢語の中で、作品の趣は何処か茫洋幽然としている。

これは、即物的な無‐思想で世界も日常的生も個人的感受性も覆われつくされてしまっている、目的合理性という縁無しの穴の中で無際限の暴力と喧噪に明け暮れている、雅量という美的構えを決定的に欠いてしまっている、現代という時代への批判でもある。



「然し苦しみのないのは何故だろう。ただこの景色を一幅の絵として観、一巻の詩として読むからである。画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起らぬ。只この景色が――腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽しませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう」

「恍惚と云うのが、こんな場合に用いるべき形容詞かと思う。・・・。自然の色を夢の手前までぼかして、有りのままの宇宙を一段、霞の国へ押し流す。睡魔の妖腕をかりて、ありとある実相の角度を滑らかにすると共に、かく和らげられたる乾坤に、われからと微かに鈍き脈を通わせる。地を這う烟の飛ばんとして飛び得ざる如く、わが魂の、わが殻を離れんとして離るるに忍びざる態である。抜け出でんとして逡巡い、逡巡いては抜け出でんとし、果ては魂と云う個体を、もぎどうに保ちかねて、氤氳たる瞑氛が散るともなしに四肢五体に纏綿して、依々たり恋々たる心地である」

「美術家の評によると、希臘の彫刻の理想は、端粛の二字に帰するそうである。端粛とは人間の活力の動かんとして、未だ動かざる姿と思う。動けばどう変化するか、風雲か雷霆か、見わけのつかぬ所に余韻が縹緲と存するから含蓄の趣を百世の後に伝うるのであろう。世上幾多の尊厳と威儀とはこの湛然たる可能力の裏面に伏在している。動けばあらわれる。あらわるれば一か二か三か必ず結末が付く。一も二も三も必ず特殊の能力には相違なかろうが、既に一となり、二となり、三となった暁には、拖泥帯水の陋を遺憾なく示して、本来円満の相に戻るわけには行かぬ」

「放心と無邪気とは余裕を示す。余裕は画に於て、詩に於て、もしくは文章に於て、必須の条件である。今代芸術の一大弊竇は、所謂文明の潮流が、徒に芸術の士を駆って、拘々として随所に齷齪たらしむるにある」

「世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋っている。元来何しに世の中へ面を曝しているんだか、解しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのを以て、さも名誉の如く心得ている。五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思っている」

「汽車程二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸氣の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車程個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたるのち、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付け様とする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寐るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これより先へは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。・・・。」

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本文学
感想投稿日 : 2014年6月11日
読了日 : 2014年6月10日
本棚登録日 : 2014年6月11日

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