失踪者 (白水Uブックス 153 カフカ・コレクション)

  • 白水社 (2006年4月1日発売)
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20世紀文学を代表するプラハ出身のユダヤ人作家フランツ・カフカ(1883-1924)の長編小説、1912-1914年執筆。カフカの死後、友人の作家でありシオニストだったマックス・ブロートが遺稿を編纂し出版する際に『アメリカ』というタイトルが付けられ――そこにはシオニストとしての思想的政治的傾向が本作品の解釈に及ぼした影響があるのだろう――、それ以来長らくその題名で通っていたが、カフカ自身が生前に『失踪者』というタイトルを予定していたことが彼の日記などから明らかとなり、現在ではこの名で呼ばれている。

故郷を追放された17歳のドイツ青年カール・ロスマンが遍歴する異国アメリカ。そのアメリカを、カフカ自身は生涯訪れることはなかったようだ。ここでアメリカとは、高度に発達した資本主義とそれを実体化して駆動させているヴェーバー的な意味での巨大で無機質で目的合理的なだけの官僚機構の網の目が行き渡った、及びそうした資本主義を可能にする即物的匿名的な殆ど暴力と云ってよい感性が充満し切った、20世紀初頭の近代化した「大都市」の隠喩であろう。そこでは、人間の人間性は、肉体も思考も労働力として商品化され消費され廃棄されるだけである。『失踪者』には、そんな「大都市」の様相がそこここに描写されている。

「あらゆる事物から発光する光が、すべてを運び去り、また運んでくるぐあいで、眺めていると目がチカチカしてきた。まるで大通り全体を大きなガラスが覆っていて、それがたえまなく巨大な腕で粉みじんに砕かれているかのようだった」「自分と相手と、また世界に向けてのような愛嬌を振りまいた」「こちらではなにしろ、おそろしく事が速くすすむ」「歩道といわず、車道といわず、たえまなく方角をかえながら渦巻状の風が起こり、騒音が追いかけてくる。人間が起こすのではなく、何か見知らぬものから発生する音のようだった」「両側の巨大都市は、すべてが空っぽで役立たずに据えつけられたようで、大小とりまぜた建物にも、どこにも何のちがいもない。地上の道路には、いつもどおり人々の生活があるのだろうが、上はうっすらと靄がたなびいているだけで、それはじっと動かず、ひと吹きで追い払えるようにも思える」

これらは、ヴァルター・ベンヤミンがゲルハルト・ショーレム宛の『カフカについての手紙』の中で次のように記しているのと符合する「ぼくにいわせれば、この現実はすでに、<個人>にとって経験可能な限界を、ほとんど越えてしまっている」。

本作品は未完であるとされている。しかし、如何なる結末で以てこの青年の遍歴にピリオドを打つことができるのだろうか。破滅によって? それはただの現実そのものであって小説とするに値しない。救済によって? それは繕う気の無い出来の悪いハリボテの如き欺瞞だ。結末など無いのだ、結末など不可能なのだ。「オクラホマ劇場」が登場する最後の30ページほどの断片部分は、確かにそれまでの水銀のような空気の鈍重さを感じさせることはない。それまでとは明らかに物語の雰囲気を異にしている。そこにはどこか「天使」に手をとられて導かれた理想世界を思わせるところがある。しかしこの「オクラホマ劇場」というものが何物であるのか、どこかチグハグで――資本主義社会機構の戯画を思わせる採用窓口――、どこまでも漠然としていて――「世界で一番大きな劇場よ」――、そしてついぞ明確に語られることはない。語ることができないのだ、語ることができてしまってはいけないのだ、語られた途端それは語ろうとしていた当の何かと決定的に断絶してしまうのだ。

なぜなら、20世紀という時代精神にあっては、希望は、それに対する諦めが倦怠へと擦り切れてしまったような遣り切れなさの不安を予感させることによってしか、その「冷気」を暗示することによってしか、語ることができなくなってしまったのだから。帰るべき「故郷」など、既に失ってしまっているのだ、予め存在しないのだ。

よって本作品は、未完であるよりほかに在りようが無かった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ドイツ文学
感想投稿日 : 2014年2月26日
読了日 : 2014年2月25日
本棚登録日 : 2014年2月26日

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