カルヴィーノ作の中でも、『くもの巣の小道』や『まっぷたつの子爵』といった初期の作品がわりと好きだが、ときどき無性に読みたくなるのは、その後の作品となる本作、そして軌を一にする『宿命の交わる城』。
カルヴィーノの作品は優しい。決して声高に自己主張することはない。その代わりどこかしらに寓話のようなものが挟み込まれている。いやいや全体が寓話かもしれない。物語や寓話の純度が高すぎて一見するとよくわからないが、運よくみつけたとしても、そう思っているのは果たして私だけかもしれない。それでもまったく構わない、そんな勘違いさえ愉しめる美しい幻想譚。
元王朝フビライ・カンの寵臣になったヴェネチア商人のマルコ・ポーロ。世界中の都市をカンに紹介していくその語り口は、まるで彷徨するオディッセウスの哀愁奏でる吟遊詩人のよう。行間から音楽まで流れてきそうな雰囲気に満たされて、カンとマルコの淡く繊細な交流は白眉だ。内へうちへゆっくり沈んでいくような清閑にうっとりしてしまい、もはや長編の散文詩といってもいい。
「確かなことは、清掃人夫は天使のように歓迎されているいうことでございまして、昨日の生活の残りを運び去るという彼らの務めは、あたかも敬虔の念をかきたてる儀式のように、無言の敬意に取り囲まれておりますが、あるいはそれもただ、一旦ごみを捨ててしまえば、そのあとはもうだれ一人そんなことを思い出したくもないというだけのせいなのかもしれません」
マルコが描いてみせるどの都市も、一つとして同じものはない。猥雑なのに繊細で、破天荒なのに柔弱、暗澹とした地下都市かと思えば、地に足のつかない中空都市、ひどくさびれて朽ちていく都市、かたやアメーバのように増殖して溢れていく……それらはどこかにあるように示唆的で、どこにもない都市。どれもがセピア色に染むような悲哀にみちている。
それらは都市という名の人間(存在)なのかもしれない。そうであれば、都市という名の人間(存在)に、どれ一つとして同じ物語はない。それぞれの人生や生きざまに、一つとして同じものがないように。ユニークで、矛盾だらけで、唯一無二、そこにはいずれにも替えがたい真実と哀切が秘められている。
「好きなように読んで、遊べばいい」そんなふうに「マルコヴァルドさん」は、いやいや作者はつぶやきながら、いつのまにか物語の森の奥へと姿を消していくようだ。きっとまた静寂なこの森に遊びにこよう……そんなに遠い話ではない。
『……実現されなかった未来は単なる過去の枝だ、枯れ枝だ。
「お前は過去をふたたび生きるために旅しておるのか?」
というのがこのとき発せられるカンの問いであるが、それはまたこんなふうに言ってもよかった
――「お前は未来を再発見するために旅しておるのか?」と。
そしてマルコの答えは
――「他処(よそ)なる場所は陰画にして写しだす鏡でございます。旅人は自己のものとなし得なかった、また今後もなし得ることのない多くのものを発見することによって、おのれの所有するわずかなものを知るのでございます」(2020/5/16)
- 感想投稿日 : 2020年5月16日
- 本棚登録日 : 2018年6月12日
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