文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫 ダ 1-1)
- 草思社 (2012年2月2日発売)
『山月記』で有名な中島敦の作品群に私の好きな『文字禍』という短編がある。紀元前660年ころのアッシリア大帝国の王は、夜な夜な図書館に出没するという奇怪な幽霊について調査するよう高名な老博士に命じた。同僚たちと調査をはじめる博士。
「歴史とは、昔、あった事柄をいうのであろうか? それとも粘土板の文字をいうのであろうか?」
「歴史とは粘土板のことじゃ!」
と鼻で笑い、豪語する博士だったが……。
おおっと、冒頭からこんなことを思い出してぐるぐる遊んでいるようでは、はたして最後までこの本を読めるのかしらん? と思いきや……意外に読みやすくて楽しい! 今までこの本を積読していたのが、なんだかもったいなく思えてきた。
サブタイトルどおり1万3000年にわたる人類史の謎を解き明かす旅になるのだが、全てを網羅することは私にはとても無理なので、印象に残ったものをいくつかあげてみる。その中のひとつが人類起源と伝播のカギになる南北の問題だ。
ニュースなどで耳にする現代の南北問題は、先進国と開発途上国間の経済格差の問題で、地球規模の不平等や貧富の格差を表している。必ずしも地理的南北のことではない。だがこの本でいう南北の問題(あわせて東西の問題)は、人類起源からあらゆるものが伝播していく過程や地理的要素を意味しているようで、大変興味深い。
たとえばユーラシア大陸は東西に長い。そのために季節は類似しているため、人々の移動、物流、農耕が盛んになると、それに伴って家畜の拡大やウイルス(疫病)もともに伝播していく。さらに文字や冶金術、鉱物、食物、貨幣、様々な技術もともに広がっていく。ギリシャ、地中海沿岸から、アナトリア地方(現在のトルコ)はあらゆるものの通り道となり、バビロン、ヒッタイト、アッシリア、ペルシャといった強大な帝国の盛衰は、歴史上わくわくするダイナミックなもの。さらにインド、中国を経て朝鮮半島、そして日本にも技術や文字や様々なものが伝播していくことを思うと、たしかにほぼ東西の移動だ。
かたや、南北アメリカ大陸、アフリカ大陸は南北に長い。当然ながら季節は大きく異なってくる。人々の移動、物流、農耕・家畜といった交流はさほど栄えず、地形などの要因も重なって、ときには孤立化し、文字や技術も伝播しにくい状況にあったようだ。
あわせて著者は、家畜可能な哺乳類とその家畜化率を調べている。
ユーラシア大陸には72種あり、うち13を家畜化した(家畜化率18%)。他方、南北アメリカ大陸には24種いたが、家畜化したのはわずか1(家畜化率4%)、サハラ砂漠以南のアフリカ大陸には51種いたものの、家畜化したのは0(家畜化率0%)。
この数字の意味するものに思わず息を呑んだ。動物を家畜化できなければ、農耕は発展せず、よって人口は拡大しない、国力は大きくならない。また家畜から派生する病原菌への対策や抗体もできないまま推移することになりそうだ。
1520~30年代、南北アメリカ大陸のアステカ帝国やインカ帝国が、数百人のわずかなスペイン軍に征服されたのは、彼らの軍馬や武器の違いもさることながら、持ち込まれた疫病の蔓延が大きな要因となったようだ。アメリカ大陸の先住民は、天然痘、インフルエンザ、チフス、麻疹などの免疫がないため、歴史のなかでこれらに罹患して大量死してしまった。マラリア、ジフテリア、百日咳、ペスト、結核なども同様だったらしい。
未だに終息しない新型コロナウイルスの世界的流行を思えば、未知の疾病に抗体も薬剤もノウハウも集団免疫もない当時のアステカの人々が、いかに数奇な運命をたどったかは容易に想像できる。
**下巻になってくると、文化面も充実してきてますます楽しい。
ちょっと世界史的になるけれど、メソポタミア地方は紀元前3000年ころ、シュメール人によって「くさび形文字」からバビロニア文字が発生した。そういえば世界最古の物語『ギルガメシュ叙事詩』は、喜怒哀楽の激しいちょっぴりお茶目な男が主人公。
またエジプトでは、紀元前3000年ころにエジプト人による象形文字、その後のアルファベットを生み、さらに紀元前1300年ころには中国で甲骨文字、その後の漢字が誕生する。
著者も紹介している人類学者クロード・レヴィ=ストロースによれば、古代の文字は「他の人間を隷属化させるため」に使われていたらしく、例えば税の取り立て、家畜数の記録、王の布告など、階層的な文化・社会が構築されているもよう。
ところがギリシャ時代あたりになると、詩やユーモアも登場し、ホメロスの叙事詩『イーリアス』をはじめとする悲劇・喜劇詩人たちが活躍するようになる。その一方で農耕民ではない狩猟採集民には、文字の必要性が低く、その借用もなかったらしい。
肥沃三日月地帯(チグリス・ユーフラテス川からシリア、イスラエル、エジプト地帯)は、紀元前4000年ころから、バビロン、ヒッタイト、アッシリア、ペルシャといった強大な帝国の栄枯盛衰がみられる。
その潮目がかわったのは、どうやらマケドニア(ギリシャ)の風雲児アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の世界征服。紀元前330~20年ころ、彼はギリシャからインドまでの広大なアジアを征服し、覇権は西へ移った。その後、紀元前2世紀にはローマ帝国によるギリシャ制服で、さらに覇権は西へ移動し、そのローマ帝国も滅亡すると、覇権は欧州の西や北へと移動していったという。
歴史の壮大な流れにほぇ~と恍惚状態になりながら、それでも著者が折をみて何度も強調していたくだりは、すこぶる明快だ。
「歴史は、民族によって異なる経路をたどったが、それは居住環境の差異によるものであって、民族間の生物学的な差異によるものではない」
さきのレヴィ=ストロースは、アマゾンに暮らしている狩猟民族のもつ動植物や草木学の造詣の深さに感銘をうけ、婚姻の巧妙で複雑な仕組みや彼らの生活に必要なものすべてが整然と整理・伝承されていることを明らかにした。一方で、未開社会には習俗しかなく歴史はない、と見下した当時の欧州至上主義、合理主義や差別的な植民地思考の蔓延。それを隠そうともしない寵児・哲学者サルトルにくさびを打ち込んだレヴィ=ストロースのフィールドワークと執念のすさまじさに息を呑む。
「人間についての真実は、これらいろいろな存在様式の間の差異と共通性とで構成されている体系の中に存在するのである」(『野生の思考』レヴィ=ストロース)
考えてみると、著者が示した歴史、とりわけアステカやインカ、オーストラリアのアボリジニーにしても、アメリカインディオやアイヌにしても、人種や民族への迫害の歴史は決して過去のことではないと思った。また列強によって書かれた、さながら「粘土板」だけが歴史ではないはず。いまだ根強い人種差別やロヒンギャ(ミャンマー)、クルド人(トルコ)、ウイグル(中国)といった少数民族への抑圧は現在進行形だということをこの本は思い起こさせる。
また著者が示した人類起源の歴史における南北問題は、現代の南北問題にも絡んでいるのではないかと思えてくる。地球的南北問題や地球環境問題は、決してぶつ切りの、その専門家だけが考える特殊な事柄ではなく、地球という全体のなかで生き、同時的共時的に生じている自分たちの問題だということを考えさせてくれると、なんだか胸が熱くなってきて、これはつたないながらも学び続ける必要があることを痛感した。
この本は大部だけれど、とても易しくて優しい。分断だらけで殺伐としてしまったこのような時勢だからこそ、興味のある方にお薦めしたい♪(2023.2.12)。
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「人類の多様性を研究しようとするなら、身近なところをみつめなければならない。しかし、人間の一般性を研究するにあたっては遠くをながめることを知らなければならない。固有性を発見するためには、まず差異の観察から始めなければならない」――ジャン=ジャック・ルソー
- 感想投稿日 : 2023年2月12日
- 本棚登録日 : 2022年12月31日
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