宇宙はなぜこのような宇宙なのか――人間原理と宇宙論 (講談社現代新書)

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  • 講談社 (2013年7月18日発売)
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 「人間原理」なんて当たり前じゃないか、と思っていたが、僕はどうやら「弱い人間原理」と「強い人間原理」を区別して理解できていなかったようだ。
 人間原理というのは、20世紀半ばにケンブリッジ大学の物理学者ブランドン・カーターによって提案された、宇宙物理における原理である。その背景には、物理定数の様々な組み合わせから10^40という無次元量が見られる「コインシデンス」があった。些か数秘術じみている気もするが、それはともかく、この理由を考えていくうちに生まれたのが人間原理であった。
 人間原理には、弱い人間原理と強い人間原理の二つがある。前者は「宇宙における私たちの位置は必然的に、観測者としての私たちの存在と両立する程度に特別である」(三浦俊彦『論理学入門』p.153)というもので、後者は「宇宙は、その歴史のどこかにおいて観測者を創り出すことを許すようなものでなければならない」(同、本書には一般的な形の人間原理のステートメントが書かれていなかったので、三浦から引いた)というものである。
 簡単に言えば、前者はこの宇宙に観測者(人間)がいるという事実から物理定数の値がなぜそのような値なのかを説明する立場である。例えば、もしも重力の値がこの宇宙での値より大きければ星はグシャッと潰れ、人間どころか如何なる生命も生まれないだろう。一方で、重力が弱くても、宇宙にあるのはガスばかりで生命が生まれそうにない。弱い人間原理は、現代の言葉で言えば「観測選択効果」の一種として説明される。「実験家ならば誰しも、観測選択効果のことをつねに念頭に置いている。例としてよく持ち出されるのは、湖に網を打って魚を捕るという話だろう。もしも網目が直径5センチもあるような粗い網だったなら、小さな魚は網にかからず、漁師は、「この湖には胴回りの直径が5センチ以下の小さな魚はいないようだ」と結論してしまうかもしれない。一方、もしも直径5ミリほどの目の細かい網を使ったとしたら、メダカのような小さな魚もどっさりかかるだろう。どんな網を使うかによって、見えるものがちがってくるのである。」(p.151)言ってみれば当たり前のことで、実際殆どの物理学者は弱い人間原理に関しては問題にすらしていないそうだ。
 一方で、如何にも眉唾で、発表当時多くの物理学者から反発を受けたのが強い人間原理である。というのも、その主張から、人間中心主義、或いは「目的論」が透けて見えるからだ。勿論それはカーターも分かっていて、そこで彼はこう述べた。「物理定数の値や初期条件が異なるような、無数の宇宙を考えてみることには、原理的には何の問題もない」(p.159)これが、人間原理におけるマルチバースである(世界アンサンブル、多宇宙ヴィジョンとも)。
 マルチバースという概念がまともに取り上げられるようになるには、宇宙論・素粒子論の発展を待たねばならなかった。宇宙論ではインフレーション+ビッグバン仮説が有力視されるようになっているが、この理論からはマルチバースという考えが自然に出てくる(この見方では、マルチバースではなくメガバースと呼ぶ方がより適当らしい)。また、素粒子論において究極の理論の最有力候補であるひも理論では宇宙は11次元であるとされており、宇宙のあり得る可能性は膨大なものとなる。
 宇宙(universe)が一つのものだという考えの下では、強い人間原理は確かに目的論に堕してしまうが、宇宙が複数(それも膨大な数が)存在する事を認めてしまえば、強い人間原理も単なる観測選択効果となるのである。
 ただ、本書でも指摘されていることだが、他の宇宙というのはこの宇宙から観測不可能であり、その存在を認めることは「検証可能性」を大前提とする近代科学と呼べるのかという疑問がある。マクロ(インフレーションモデル)とミクロ(ひも理論)から、ともにマルチバースの可能性が示唆されているのだから、気持ちとしては、非常にありそうだと思えるのだが、未来永劫存在が確認できないものを仮定して良いのかというところにやはり抵抗がある。今よりもっと研究が進み、マルチバースの(間接的な)裏付けが続々と上がるようになれば、例えばブラックホールやクォークのように、いつかはマルチバースなんて当たり前になるのだろうか?

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 4 自然科学
感想投稿日 : 2021年3月14日
読了日 : 2021年3月12日
本棚登録日 : 2021年3月1日

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